暴力的な動きの否定 それが今の自分のテーマです
以下かなり長い引用ですが
極真会館時代
骨の一本や二本はや二本はしかたない
夏の池袋の繁華街はうんざりするほど熱い。
アスファルトの照り返しがきつく、道場に着くまでに気分的にぐったりしてしまう。
じつは入門した日から数えて三日間道場を休んだ。顔の腫れがひかないのだ。今日こうして重い体を引きずってやってきたのは意地である。
こんな世界があるとは思わなかった。四日前、勇んで池袋の極真会館総本部道場にやってきた私は、劇画や映画で見たのと同じ物があることに感動していた。
思ったより建物は小さかったが、会館内部の雰囲気は重く静かである。入門手続きもすませ、そのまま四時からの稽古に出るために、地下の更衣室から階段を上ってゆくころには、すでにここの一員になった気でワクワクしていた。
二階のメイン道場で一番後ろにつき、見よう見真似でやった基本稽古はあっというまに終わり、自己紹介となった。でかい声で、と言われたので何人かいたなかでも一番犬きな声で名前を名のった。
「元気がいいじゃないか」と、指導員に言われたのもうれしかった。
初心者クラスはいったん地下の道場につれていかれ、基本中の基本を茶帯の先輩に教えてもらう。このころは本部に入門してくる人間がひと月で百人を越えていた。指導員も場所も不足しているらしく、百人入っても、ひと月後には二、三人になっているとも聞いていた。
私はそれが厳しい稽古のせいだとばかり思っていた。
腕立てを何回もやらされたのは苦しかったが、想像したよりらくに地下での稽古が終わったのでホッ先輩についてみんなでゾロゾロと二階に上がっていく。
そして、そこに地獄が待っていた。
オスッ、オスッ、と初心者が元気よく道場に入ってゆくころには、上級者の稽古は一段落し、壁際にずらりと並んで正座して、組手稽古のはじまりを待つばかりとなっていた。
黒帯の先輩達が道場の中央でブラブラと体をほぐしている。
(黒帯だ!)私は先輩達の腰に巻かれた黒帯の中の金色の刺繍に見とれながら一番最後の列に正座した。
黒帯が数人横に並んで、茶帯から順に相手をしてもらう形で組手がはじまる。
(ん……?)すぐに私はあぜんとした。突き蹴りを思ったほど強く当てないでやっていたからだ。
(なるほど、現実はこういった感じでやっていたのか)
さらに、おやっと思ったのは、黒帯の先輩が技をかけようとするやいなや「参りました!」といささかおおげさなほどの声で後輩達が降参することであった。
軽く先輩を突いて下がり、先輩が一歩踏み出すと、「参りましたあ!」だ。なにもしてないのにだ。
やはり先輩は強すぎるから怖いのだろう。でもそんなに強い先輩なら弱い後輩にたいしてまさか本気で当てはすまい。
ひととおり色帯の組手が終わり、白帯の上級も終わると、今度はさっきやられていた茶番の先輩達が立ち上がり、並んだ。
指導員が私たちの方を見て手を上げ、
「組手をやってみたいやつはいるかあ」と言った。
私はなんのためらいもなく真っ先に手を高々と上げ、「オスッ」とやった。
……今でも思い出すたび背筋をソツと冷たいものが走る。無知ほど大胆なものはないとはいえ……。
えっ?……と息をのむような気配がした。
ああ、なにも知らないのか……という空気も伝わってきてはいた。
私はすくんでいるような前列の白帯先輩方のあいだを縫って道場中央まで行き、先輩の前に立った。
(しくじったかな)と感じたのは、その茶帯の先輩の顔を見たときである。
親の敵のような顔をしてこちらをにらんでいる。まるで「手ェあげやがったなこの野郎」といわんばかりだ。
なにをどうしていいかわからず指導員の方を見ると、指導員は、
「始め!」とすでに号令をかけている、合わせて太鼓がドォーンとなった。
私は、自慢じゃないが構えかたもなにもわからないまったくの素人なのである。あわてて先輩に向き直ったときには顔面に強烈なショックを受け、床に叩きづけられていた。
蹴られたのか、突かれたのかもわからない。鼻血が吹き出し、よつんばいになって血をぬぐっていると腹を蹴られた。息が詰まってもがいていると、上から先輩がとなっている。
「なんで参りましたと言わないんだおまえは! なめてんのか!」
そしてさらに攻撃を加えてきそうな気配である。
「早く参りましたって言え」そばにいた白帯が耳元でささやいてくれた。
「参りました」自分ではない口が必死で繰り返していた。
ショックだった。頭の中は一瞬にして真っ白となり、急激に強く打ち出した心臓の鼓動が耳を打つ。ポタポタと床に落ちてゆく真っ赤な血。まるで他人ごとのようで現実感がない。
まわりで正座している仲間達が、動物園の見物客に見えた。動物はこの私だ。泣く子も黙る極真会館本部道場で、入門したその日に組手稽古を申し出るという、この道場の不文律に触れてしまった男だ。
今思えば、これもこの時代のなせる業だったのだろう。その先輩達はあとで接してみると、けっしてめちゃくちゃな人たちばかりではなかった。やさしい人もいたのである。ただ、みんなまだ若かった。現実と劇画や映画の世界との区別があいまいな人もいただろうし、個人レベルでの考えが全体的雰囲気に打ち勝てないことはよくあるものだ。
私は命からがら立ち上がり、先輩に礼をして席に戻ろうとした。しかしそれは許されなかった。つぎの先輩がこっちをにらんで隣で待っているのである。
なかば放心状態で私はよろよろと横にずれた。もうたくさんだ。すぐ参ったと言ってやろうと思って、顔だけを必死にカバーして構えた。つぎの瞬間尺払いで頭から床に落ちていた。背中を踏まれ、ふたたび息が詰まる。
リンチである。
自分の血をこれほど味わったのははじめてだった。
このリンチはもうひとり続いて終わった。
稽古が終了し、開放されて顔を洗った。のどの奥から血がたんまりと出た。体中の痛みより、精神的なショックでまわりがよく見えなかった。
このときのショックは、今でも鮮明に頭にこびりついている。おそらく一生息れることはないだろう。未知の世界に踏み込んだ瞬間にこういった理不尽な洗礼を受けるなど、思ってもみなかったのだ。
更衣室で、今日買ってすでに血だらけとなった空手衣をバッグに詰めこみながら、空手同好会の連中に大見得を切った自分の姿を思い出していた。
(あまいんだよな、おれって)
悔しくて涙が出そうだったので急いで会館を出た。
(やめよう。こんなところにいたら殺されちまう……)
でも、こうしてほんとうに強くなっていくのかもしれない、という考えも頭をかすめる。先輩たちはみんなこういう経験をへて、強くなったのかも、と。
あの中での常識を体得するまでやっていけるのか不安だったが、始めてしまったことだし、もしかすると自分があまいだけで、本来空手とはこういうものかもしれないとも考えてもみた。いろんなことをつぎからつぎへと考えた。考えを途切らせた瞬間に、あの組手の光景が浮かんでくるのがたまらなかった。
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やめてなるものか、との思いだけで続けることは厳しかった。
なんといっても、まず先輩に顔を覚えられてしまったのである。
そのため以後何度か、組手の時間、下を向いて黙っていても立たされてやらされた。ひどいときは倒れた上に馬乗りに乗られ、顔面を何度もなぐられた。空手の技術だけでも雲泥の差があるというのに、反則まで加えなくてもよさそうなもんだが……。
稽古に向かう電車の中での憂欝。池袋駅から道場までの道程での自分との葛藤。
(今日の指導はどの先輩だろう?どの程度やられるだろう?)
引き返そうかと思ったことも一度や二度ではない。
そして無事稽古を終え(打ち身や捻挫は無事のうちである)、道場を後にするときの開放感は、言葉にしてみれば(ああ、今日も生きて帰れる)という切実なものだった。
帰りの電車の中では、吊り革にしがみついて体を支え、帰ると食事もできずに部屋に入ってダウン。うつらうつらしていると体が痛みに耐えかね、無意識にうなり声をあげることもあった。祖母がそのたびに見に来ては、ふすまから顔を半分ほど出し「もうだめだな」「もうやめるな」とひとりごとのように言っては立ち去っていったのを思い出す。
両親は「時間の問題だな」と言っていたというが、兄や姉は「ばかに真剣だから続きそうだ」と思っていたらしい。
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同輩の中には、蹴りやパンチで鼻の骨を折るものが続出した。そういった中で道場に通いつづけるためには覚悟、そしてひとつの思い込みが必要である。
(骨の一本や二本はしかたない。そういうものなのだ)
無理やりにでも自分に言い聞かせる。べつに空手をやらなくても、転んだだけで大ケガをすることもあるのだ、と。
予想以上にしんどいため、高校に行っても同好会の連中と会って話す気すら起こらない。もっともまわりは受験のことで頭がいっぱいのようだったし、河合はすでにアメリカに留学していった後だ。後藤には何度か話したと思うが、
「ばかじゃねえのおまえ、この時期に」
と言われておしまいである。早く進学する大学を決めるという進路指導の先生には、いずれ空手の指導員になってアメリカに行く予定だから心配はいらないと言っておいた。
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だが、このもっともつらかった時期にもよいことはあった。
大山倍達館長がときどき稽古が終わった後に道場に現われ、訓話をしてくれたことである。
尊敬する館長をはじめて間近に見たときは感動で震えた。館長は「ワタシワネー…」と特徴のあるイントネーションで話されるが、後から考えるとかなり突飛なこともおっしゃっていた。が、館長の言葉にはウムを言わさずそれを肯定させてしまうという魔力のような力があった。
「私はサラリーマンが大嫌いだ。サラリーマンは男がやることじゃない」と言われれば、私も心の中で(そうだ、サラリーマンは男じゃない)と思ったし、「君達アルバイトなどする時間があったら空手をしなさい。お金は親からもらえばいい、親は子どもが強くなるためだったらお金をくれるはずだ」との言葉にも(なるほど、帰ったら月謝は払ってもらうよう親に頼むか)とも考えた。実際は帰ってくる間にその勢いが薄れ、「空手なんかやめろ。やるんだったら全部自分で工面しろ」という親の前ではなにも言えなかったのだが。
大山館長はまた言葉の抑揚が非常に豊かだった。今でも印象に残っている言葉がある。「金を失うことはたいしたことじゃない。だけど信用を失うことはたいへんなことだ。そして勇気を失うことは己を失うことだ」この「勇気を……」のくだりで館長の発する声はとっぜん大きくなり、思わずビクッとして姿勢を正し直してしまったという記憶がある。これをカリスマというのだろうか、そのしやべり方、独特の断定の仕方には、空手バカ一代世代の人間ならずとも強く心を動かされるものがあったはずである。
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十月の審査会で青帯を取得。年が明けて昭和五三年正月の二峰山冬季合宿に参加するころには、私にも先輩と呼んでくれる後輩ができていた。
ひとつの山は越えていたのだ。仲間と稽古の帰りに空手について話し合うのがなによりの楽しみとなったし、白帯時代のつらい日々をともに我慢してつかんだ色帯を締めるたびに、仲間内の連帯感は強くなった。
受験勉強はまったやっていなかったが、四年間空手の稽古がしたいという不純な動機で、家から一番近い亜細亜大学だを受けて入学した。
色帯を締めるようになってからは、強くなることを本格的に意識して稽古にのぞむようになる。
思えば入門した途端にシメられてから、半年というもの「我慢」の二文字のみを胸に刻んで道場に通う日々だった。
そうした、我慢のみの毎日から一段階上がる。道場にしがみついているだけではなく、選手として一年後か二年後、大会にデビューすべく実力をつけることを真剣に考えだした時期が、このころであった。
空手を始めた当初の夢。「華麗な技で倒す空手」をあらためて目標とし、ひとつひとつの蹴りに工夫をした。たとえば基本稽古の回し蹴りでは、左右連続で蹴るため、だれもが下からすり上げるようにして、悪く言えば足を上げるだけのような蹴り方をしていたが、私はつねに相手の顔面に直角に当てるよう意識して蹴った。また蹴り技はすべて、まわりのだれよりも高い位置を蹴るように心がけた。組手においては、相手のガードがくずれたときにしか顔面に当たらないような蹴りではなく、万全のガードをも縫って上から入るような蹴りをめざして稽古を積んだ。
当時極真会館本部には、館長以外に先生という人が存在せず、若い先輩方は自分が強くなることに必死なため、細かな技術は教えてはくれなかった。いいと思ったものは見て学び、自分で研究工夫して強くなるしか道はない。強くならないまま進級すると、今度は後輩に激しい追い上げをくう。そこでやめていく人間も多い。ここでふんばらなければならないのだ。
今のように情報がいくらでもつかめたり、科学的トレーニングの前例があるわけではない。当時はむしろウエイト.トレーニングをやるとスピードが落ちると言われてた時代で、道場の地下にあるベンチプレス台で、せいぜい七、八十キロくらいのパーベルを上げる先輩がチラホラいるくらいだった。したがって実力をアップさせる補強トレーニングは、もっぱら腕立てとスクワット、逆立ち歩行に腹筋、背筋である。
指立てふせには、高校時代から執念を燃やしていたので(当時はこういう奴が多かった!)親指だけで五十回できるようになった。
試してみると親指だけで逆立ちもできる。こうなったら片手で十円玉も曲げられるんじゃないかと期待してチャレンジしてみたが、十円硬貨はおろかアルミの一円玉すら曲げることはできない。
(おかしい、たしかに大山館長の本には親指で逆立ちができるようになれば、十円玉を二本の指で曲げられると書いであったはずだ。そしてそのくらいの力があれば、牛を一撃で倒すことができると)
私は館長の本を読み返して、自分の落ち度を探してみた。
体重が足りないのか?
なんとなく理解できるようなできないような……。
それでもそれからしばらく、指立てふせの訓練は続けた。こんなことをしてる時間にもっとやることがあるんじゃないか?とは何度も思う、だが、決めたことをむやみに疑いだしたらきりがないのだ。
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緑帯クラスになると、本部では道場破りが来たような場合、真っ先に相手をさせられる。
緑帯で止め、茶帯や黒帯まで相手をさせないようにする。そういう気持ちで稽古しろと常日頃から言われていた。
現実に昔はよく道場破りが出現したらしい。そんなときは必ず戸板に乗せるような状態まで、つまりかんぷ完膚なきまでに叩きのめしたうえで帰したということだ。
だが最近はほとんど現われない。少なくとも私が在籍中にはひとりも来なかったはずだ。
そのかわり他流空手の経験者というのはよく入門してくる。指導員によっては、これを断固「シメておく」という姿勢の者も多くいた。
私も一度、ものすごく強い入門者と、なかばデスマッチをやらされたことがある。
その白帯は、入門したばかりだというのに、黄帝、青帯クラスを組手でぶっ飛ばしていた。他流経験者であるのは一目瞭然だった。
指導員はその白帯を道場中央に立たせたうえで、われわれ緑帯クラスをざっと見わたした。みんな思わず下を見る。こういう場合、負けは許されない。他流派で何段であろうと、ここ極真会では関係ない。先輩は後輩に組手で負けてはいけないのである。そのためには手段を選ばず、いざとなったら顔面を叩いても、金的を蹴ってもよしとされている。
指導員の指名を待ちながら、その直前に夜の部の稽古で起こった事件を思い出していた。それは数日前、百九十センチ近くある白帯に、茶帯が組手でやられたという話だ。そのあとで白帯は黒帯にのされ、その茶帯は竹刀でさんざん叩かれたというのである。気分の悪くなる連想であった。
しかし、だからといってここで顔をふせていては自分に恥ずかしいではないか。虚勢でも私は姿勢を正して指導員を見た。
パチッと目と目が合う。指導員がニヤリと笑う。指名を受け、私は立ち上がって前に出た。
名も知らぬ白帯は、ガッチリとした体格で目つきも鋭く、緑帯の私をにらんでいる。いい度胸だ。
年齢は二四歳。私より六つ上である。私としてはべつに敵対意識はなかった。だがそんな雰囲気でもなくなってきている。やるしかない。
白帯は指導員の合図を待たずに、飛び込んできそうなほど気負っている。こっちの身もあらためて引き締まる。
ダダッと床を蹴る音。指導員が腕を振り下ろすと同時に、白帯は獣のようなものすごい勢いで飛び込んできた。
まるで体当たりである。私は一気に押しこまれ、壁にはりつけにされた。
ふんっ、ふんっ、鼻息も荒く左右の拳を振るってくる。必死に回り込み、態勢を立て直そうとするが、まるで親の敵のように身体ごとぶつかってくるのでなすすべがない。これじゃケンカだ。
拳と拳が至近距離で炸裂しあう。もう腕であろうが肘であろうがおかまいなし。技もなにもない。傷つけあいである。茶帯の先輩が見かねて立ち上がりかけた。が、それを制して指導員は冷たく言い放った。
「どっちがが倒れるまでやらせよう」
そしてニヤリと笑い、からかうように続けた。
「漫画じゃあ、極真本部の緑帯はすごく強いことになってたぞ」
こうなっては死に物狂いにならざるをえない。この場で白帯にのされては、今までの苦労が水の泡だ。
しかし、しゃにむに突っ込んでくる白帯の勢いは止まらない。何度ももつれあっては倒れる。倒れる瞬間、有利な体勢をとろうと無言のせめぎあいが続く。痛みを感じている暇もない。
それでも顔面を叩こうとか、金的を蹴ろうなどとは思わなかった。
この指導員はそれがおもしろくなかったのかもしれない。だが、自分がやられて骨身にしみているのだ。同じことを自分の手で繰り返す気はサラサラない。
くんずほぐれつ、泥仕合のような組手が続くうち、白帯の息があがりはじめるのがわかった。激しい呼吸の中で苦しげに顔をゆがめている。頭と頭を突き合わせて突き合い、必死にふんばったままタイミングをはかる。こっちもエネルギーが尽きそうだ。
突き放すように力を込めると、案の定必死に押し返してきた。その瞬間体を開いて身を引き、わずかの間合をつくる。とつぜん支えを失ったようにバランスをくずしたところへ、無我夢中で左の回し蹴りを連続して振ると、二発目が顔面にクリーンヒットした。
「ぐわあ!」白帯は派手にくずれ落ち、顔面を両手で抑えたまま、私の足元でしばらくもがいていた。
強いられたデスマッチは終わった。
私も立っているのが非常につらいほど疲れていた。空手衣はグツショリと濡れ、帯は半分ほどけていた。
「強いじゃないか緑帯」
指導員が皮肉っぽく笑いながら言った。
つぎの日道場に入ると、その白帯がいた。私を見ると「押忍」と言って立ち上がる。右目が真っ赤だ。
「病院へは行ったの?」聞いてみると「押忍」と答え、「.....最後の蹴りは.....見えませんでした」と言いにくそうに言ってからニコリと笑った。
わだかまりはなかった。私としても悪戦苦闘だったが、道場の風潮に流されず闘いぬいた満足感があった。
果たしてこれが正しい武道と言えるでしょうか?
以下かなり長い引用ですが
極真会館時代
骨の一本や二本はや二本はしかたない
夏の池袋の繁華街はうんざりするほど熱い。
アスファルトの照り返しがきつく、道場に着くまでに気分的にぐったりしてしまう。
じつは入門した日から数えて三日間道場を休んだ。顔の腫れがひかないのだ。今日こうして重い体を引きずってやってきたのは意地である。
こんな世界があるとは思わなかった。四日前、勇んで池袋の極真会館総本部道場にやってきた私は、劇画や映画で見たのと同じ物があることに感動していた。
思ったより建物は小さかったが、会館内部の雰囲気は重く静かである。入門手続きもすませ、そのまま四時からの稽古に出るために、地下の更衣室から階段を上ってゆくころには、すでにここの一員になった気でワクワクしていた。
二階のメイン道場で一番後ろにつき、見よう見真似でやった基本稽古はあっというまに終わり、自己紹介となった。でかい声で、と言われたので何人かいたなかでも一番犬きな声で名前を名のった。
「元気がいいじゃないか」と、指導員に言われたのもうれしかった。
初心者クラスはいったん地下の道場につれていかれ、基本中の基本を茶帯の先輩に教えてもらう。このころは本部に入門してくる人間がひと月で百人を越えていた。指導員も場所も不足しているらしく、百人入っても、ひと月後には二、三人になっているとも聞いていた。
私はそれが厳しい稽古のせいだとばかり思っていた。
腕立てを何回もやらされたのは苦しかったが、想像したよりらくに地下での稽古が終わったのでホッ先輩についてみんなでゾロゾロと二階に上がっていく。
そして、そこに地獄が待っていた。
オスッ、オスッ、と初心者が元気よく道場に入ってゆくころには、上級者の稽古は一段落し、壁際にずらりと並んで正座して、組手稽古のはじまりを待つばかりとなっていた。
黒帯の先輩達が道場の中央でブラブラと体をほぐしている。
(黒帯だ!)私は先輩達の腰に巻かれた黒帯の中の金色の刺繍に見とれながら一番最後の列に正座した。
黒帯が数人横に並んで、茶帯から順に相手をしてもらう形で組手がはじまる。
(ん……?)すぐに私はあぜんとした。突き蹴りを思ったほど強く当てないでやっていたからだ。
(なるほど、現実はこういった感じでやっていたのか)
さらに、おやっと思ったのは、黒帯の先輩が技をかけようとするやいなや「参りました!」といささかおおげさなほどの声で後輩達が降参することであった。
軽く先輩を突いて下がり、先輩が一歩踏み出すと、「参りましたあ!」だ。なにもしてないのにだ。
やはり先輩は強すぎるから怖いのだろう。でもそんなに強い先輩なら弱い後輩にたいしてまさか本気で当てはすまい。
ひととおり色帯の組手が終わり、白帯の上級も終わると、今度はさっきやられていた茶番の先輩達が立ち上がり、並んだ。
指導員が私たちの方を見て手を上げ、
「組手をやってみたいやつはいるかあ」と言った。
私はなんのためらいもなく真っ先に手を高々と上げ、「オスッ」とやった。
……今でも思い出すたび背筋をソツと冷たいものが走る。無知ほど大胆なものはないとはいえ……。
えっ?……と息をのむような気配がした。
ああ、なにも知らないのか……という空気も伝わってきてはいた。
私はすくんでいるような前列の白帯先輩方のあいだを縫って道場中央まで行き、先輩の前に立った。
(しくじったかな)と感じたのは、その茶帯の先輩の顔を見たときである。
親の敵のような顔をしてこちらをにらんでいる。まるで「手ェあげやがったなこの野郎」といわんばかりだ。
なにをどうしていいかわからず指導員の方を見ると、指導員は、
「始め!」とすでに号令をかけている、合わせて太鼓がドォーンとなった。
私は、自慢じゃないが構えかたもなにもわからないまったくの素人なのである。あわてて先輩に向き直ったときには顔面に強烈なショックを受け、床に叩きづけられていた。
蹴られたのか、突かれたのかもわからない。鼻血が吹き出し、よつんばいになって血をぬぐっていると腹を蹴られた。息が詰まってもがいていると、上から先輩がとなっている。
「なんで参りましたと言わないんだおまえは! なめてんのか!」
そしてさらに攻撃を加えてきそうな気配である。
「早く参りましたって言え」そばにいた白帯が耳元でささやいてくれた。
「参りました」自分ではない口が必死で繰り返していた。
ショックだった。頭の中は一瞬にして真っ白となり、急激に強く打ち出した心臓の鼓動が耳を打つ。ポタポタと床に落ちてゆく真っ赤な血。まるで他人ごとのようで現実感がない。
まわりで正座している仲間達が、動物園の見物客に見えた。動物はこの私だ。泣く子も黙る極真会館本部道場で、入門したその日に組手稽古を申し出るという、この道場の不文律に触れてしまった男だ。
今思えば、これもこの時代のなせる業だったのだろう。その先輩達はあとで接してみると、けっしてめちゃくちゃな人たちばかりではなかった。やさしい人もいたのである。ただ、みんなまだ若かった。現実と劇画や映画の世界との区別があいまいな人もいただろうし、個人レベルでの考えが全体的雰囲気に打ち勝てないことはよくあるものだ。
私は命からがら立ち上がり、先輩に礼をして席に戻ろうとした。しかしそれは許されなかった。つぎの先輩がこっちをにらんで隣で待っているのである。
なかば放心状態で私はよろよろと横にずれた。もうたくさんだ。すぐ参ったと言ってやろうと思って、顔だけを必死にカバーして構えた。つぎの瞬間尺払いで頭から床に落ちていた。背中を踏まれ、ふたたび息が詰まる。
リンチである。
自分の血をこれほど味わったのははじめてだった。
このリンチはもうひとり続いて終わった。
稽古が終了し、開放されて顔を洗った。のどの奥から血がたんまりと出た。体中の痛みより、精神的なショックでまわりがよく見えなかった。
このときのショックは、今でも鮮明に頭にこびりついている。おそらく一生息れることはないだろう。未知の世界に踏み込んだ瞬間にこういった理不尽な洗礼を受けるなど、思ってもみなかったのだ。
更衣室で、今日買ってすでに血だらけとなった空手衣をバッグに詰めこみながら、空手同好会の連中に大見得を切った自分の姿を思い出していた。
(あまいんだよな、おれって)
悔しくて涙が出そうだったので急いで会館を出た。
(やめよう。こんなところにいたら殺されちまう……)
でも、こうしてほんとうに強くなっていくのかもしれない、という考えも頭をかすめる。先輩たちはみんなこういう経験をへて、強くなったのかも、と。
あの中での常識を体得するまでやっていけるのか不安だったが、始めてしまったことだし、もしかすると自分があまいだけで、本来空手とはこういうものかもしれないとも考えてもみた。いろんなことをつぎからつぎへと考えた。考えを途切らせた瞬間に、あの組手の光景が浮かんでくるのがたまらなかった。
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やめてなるものか、との思いだけで続けることは厳しかった。
なんといっても、まず先輩に顔を覚えられてしまったのである。
そのため以後何度か、組手の時間、下を向いて黙っていても立たされてやらされた。ひどいときは倒れた上に馬乗りに乗られ、顔面を何度もなぐられた。空手の技術だけでも雲泥の差があるというのに、反則まで加えなくてもよさそうなもんだが……。
稽古に向かう電車の中での憂欝。池袋駅から道場までの道程での自分との葛藤。
(今日の指導はどの先輩だろう?どの程度やられるだろう?)
引き返そうかと思ったことも一度や二度ではない。
そして無事稽古を終え(打ち身や捻挫は無事のうちである)、道場を後にするときの開放感は、言葉にしてみれば(ああ、今日も生きて帰れる)という切実なものだった。
帰りの電車の中では、吊り革にしがみついて体を支え、帰ると食事もできずに部屋に入ってダウン。うつらうつらしていると体が痛みに耐えかね、無意識にうなり声をあげることもあった。祖母がそのたびに見に来ては、ふすまから顔を半分ほど出し「もうだめだな」「もうやめるな」とひとりごとのように言っては立ち去っていったのを思い出す。
両親は「時間の問題だな」と言っていたというが、兄や姉は「ばかに真剣だから続きそうだ」と思っていたらしい。
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同輩の中には、蹴りやパンチで鼻の骨を折るものが続出した。そういった中で道場に通いつづけるためには覚悟、そしてひとつの思い込みが必要である。
(骨の一本や二本はしかたない。そういうものなのだ)
無理やりにでも自分に言い聞かせる。べつに空手をやらなくても、転んだだけで大ケガをすることもあるのだ、と。
予想以上にしんどいため、高校に行っても同好会の連中と会って話す気すら起こらない。もっともまわりは受験のことで頭がいっぱいのようだったし、河合はすでにアメリカに留学していった後だ。後藤には何度か話したと思うが、
「ばかじゃねえのおまえ、この時期に」
と言われておしまいである。早く進学する大学を決めるという進路指導の先生には、いずれ空手の指導員になってアメリカに行く予定だから心配はいらないと言っておいた。
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だが、このもっともつらかった時期にもよいことはあった。
大山倍達館長がときどき稽古が終わった後に道場に現われ、訓話をしてくれたことである。
尊敬する館長をはじめて間近に見たときは感動で震えた。館長は「ワタシワネー…」と特徴のあるイントネーションで話されるが、後から考えるとかなり突飛なこともおっしゃっていた。が、館長の言葉にはウムを言わさずそれを肯定させてしまうという魔力のような力があった。
「私はサラリーマンが大嫌いだ。サラリーマンは男がやることじゃない」と言われれば、私も心の中で(そうだ、サラリーマンは男じゃない)と思ったし、「君達アルバイトなどする時間があったら空手をしなさい。お金は親からもらえばいい、親は子どもが強くなるためだったらお金をくれるはずだ」との言葉にも(なるほど、帰ったら月謝は払ってもらうよう親に頼むか)とも考えた。実際は帰ってくる間にその勢いが薄れ、「空手なんかやめろ。やるんだったら全部自分で工面しろ」という親の前ではなにも言えなかったのだが。
大山館長はまた言葉の抑揚が非常に豊かだった。今でも印象に残っている言葉がある。「金を失うことはたいしたことじゃない。だけど信用を失うことはたいへんなことだ。そして勇気を失うことは己を失うことだ」この「勇気を……」のくだりで館長の発する声はとっぜん大きくなり、思わずビクッとして姿勢を正し直してしまったという記憶がある。これをカリスマというのだろうか、そのしやべり方、独特の断定の仕方には、空手バカ一代世代の人間ならずとも強く心を動かされるものがあったはずである。
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十月の審査会で青帯を取得。年が明けて昭和五三年正月の二峰山冬季合宿に参加するころには、私にも先輩と呼んでくれる後輩ができていた。
ひとつの山は越えていたのだ。仲間と稽古の帰りに空手について話し合うのがなによりの楽しみとなったし、白帯時代のつらい日々をともに我慢してつかんだ色帯を締めるたびに、仲間内の連帯感は強くなった。
受験勉強はまったやっていなかったが、四年間空手の稽古がしたいという不純な動機で、家から一番近い亜細亜大学だを受けて入学した。
色帯を締めるようになってからは、強くなることを本格的に意識して稽古にのぞむようになる。
思えば入門した途端にシメられてから、半年というもの「我慢」の二文字のみを胸に刻んで道場に通う日々だった。
そうした、我慢のみの毎日から一段階上がる。道場にしがみついているだけではなく、選手として一年後か二年後、大会にデビューすべく実力をつけることを真剣に考えだした時期が、このころであった。
空手を始めた当初の夢。「華麗な技で倒す空手」をあらためて目標とし、ひとつひとつの蹴りに工夫をした。たとえば基本稽古の回し蹴りでは、左右連続で蹴るため、だれもが下からすり上げるようにして、悪く言えば足を上げるだけのような蹴り方をしていたが、私はつねに相手の顔面に直角に当てるよう意識して蹴った。また蹴り技はすべて、まわりのだれよりも高い位置を蹴るように心がけた。組手においては、相手のガードがくずれたときにしか顔面に当たらないような蹴りではなく、万全のガードをも縫って上から入るような蹴りをめざして稽古を積んだ。
当時極真会館本部には、館長以外に先生という人が存在せず、若い先輩方は自分が強くなることに必死なため、細かな技術は教えてはくれなかった。いいと思ったものは見て学び、自分で研究工夫して強くなるしか道はない。強くならないまま進級すると、今度は後輩に激しい追い上げをくう。そこでやめていく人間も多い。ここでふんばらなければならないのだ。
今のように情報がいくらでもつかめたり、科学的トレーニングの前例があるわけではない。当時はむしろウエイト.トレーニングをやるとスピードが落ちると言われてた時代で、道場の地下にあるベンチプレス台で、せいぜい七、八十キロくらいのパーベルを上げる先輩がチラホラいるくらいだった。したがって実力をアップさせる補強トレーニングは、もっぱら腕立てとスクワット、逆立ち歩行に腹筋、背筋である。
指立てふせには、高校時代から執念を燃やしていたので(当時はこういう奴が多かった!)親指だけで五十回できるようになった。
試してみると親指だけで逆立ちもできる。こうなったら片手で十円玉も曲げられるんじゃないかと期待してチャレンジしてみたが、十円硬貨はおろかアルミの一円玉すら曲げることはできない。
(おかしい、たしかに大山館長の本には親指で逆立ちができるようになれば、十円玉を二本の指で曲げられると書いであったはずだ。そしてそのくらいの力があれば、牛を一撃で倒すことができると)
私は館長の本を読み返して、自分の落ち度を探してみた。
体重が足りないのか?
なんとなく理解できるようなできないような……。
それでもそれからしばらく、指立てふせの訓練は続けた。こんなことをしてる時間にもっとやることがあるんじゃないか?とは何度も思う、だが、決めたことをむやみに疑いだしたらきりがないのだ。
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緑帯クラスになると、本部では道場破りが来たような場合、真っ先に相手をさせられる。
緑帯で止め、茶帯や黒帯まで相手をさせないようにする。そういう気持ちで稽古しろと常日頃から言われていた。
現実に昔はよく道場破りが出現したらしい。そんなときは必ず戸板に乗せるような状態まで、つまりかんぷ完膚なきまでに叩きのめしたうえで帰したということだ。
だが最近はほとんど現われない。少なくとも私が在籍中にはひとりも来なかったはずだ。
そのかわり他流空手の経験者というのはよく入門してくる。指導員によっては、これを断固「シメておく」という姿勢の者も多くいた。
私も一度、ものすごく強い入門者と、なかばデスマッチをやらされたことがある。
その白帯は、入門したばかりだというのに、黄帝、青帯クラスを組手でぶっ飛ばしていた。他流経験者であるのは一目瞭然だった。
指導員はその白帯を道場中央に立たせたうえで、われわれ緑帯クラスをざっと見わたした。みんな思わず下を見る。こういう場合、負けは許されない。他流派で何段であろうと、ここ極真会では関係ない。先輩は後輩に組手で負けてはいけないのである。そのためには手段を選ばず、いざとなったら顔面を叩いても、金的を蹴ってもよしとされている。
指導員の指名を待ちながら、その直前に夜の部の稽古で起こった事件を思い出していた。それは数日前、百九十センチ近くある白帯に、茶帯が組手でやられたという話だ。そのあとで白帯は黒帯にのされ、その茶帯は竹刀でさんざん叩かれたというのである。気分の悪くなる連想であった。
しかし、だからといってここで顔をふせていては自分に恥ずかしいではないか。虚勢でも私は姿勢を正して指導員を見た。
パチッと目と目が合う。指導員がニヤリと笑う。指名を受け、私は立ち上がって前に出た。
名も知らぬ白帯は、ガッチリとした体格で目つきも鋭く、緑帯の私をにらんでいる。いい度胸だ。
年齢は二四歳。私より六つ上である。私としてはべつに敵対意識はなかった。だがそんな雰囲気でもなくなってきている。やるしかない。
白帯は指導員の合図を待たずに、飛び込んできそうなほど気負っている。こっちの身もあらためて引き締まる。
ダダッと床を蹴る音。指導員が腕を振り下ろすと同時に、白帯は獣のようなものすごい勢いで飛び込んできた。
まるで体当たりである。私は一気に押しこまれ、壁にはりつけにされた。
ふんっ、ふんっ、鼻息も荒く左右の拳を振るってくる。必死に回り込み、態勢を立て直そうとするが、まるで親の敵のように身体ごとぶつかってくるのでなすすべがない。これじゃケンカだ。
拳と拳が至近距離で炸裂しあう。もう腕であろうが肘であろうがおかまいなし。技もなにもない。傷つけあいである。茶帯の先輩が見かねて立ち上がりかけた。が、それを制して指導員は冷たく言い放った。
「どっちがが倒れるまでやらせよう」
そしてニヤリと笑い、からかうように続けた。
「漫画じゃあ、極真本部の緑帯はすごく強いことになってたぞ」
こうなっては死に物狂いにならざるをえない。この場で白帯にのされては、今までの苦労が水の泡だ。
しかし、しゃにむに突っ込んでくる白帯の勢いは止まらない。何度ももつれあっては倒れる。倒れる瞬間、有利な体勢をとろうと無言のせめぎあいが続く。痛みを感じている暇もない。
それでも顔面を叩こうとか、金的を蹴ろうなどとは思わなかった。
この指導員はそれがおもしろくなかったのかもしれない。だが、自分がやられて骨身にしみているのだ。同じことを自分の手で繰り返す気はサラサラない。
くんずほぐれつ、泥仕合のような組手が続くうち、白帯の息があがりはじめるのがわかった。激しい呼吸の中で苦しげに顔をゆがめている。頭と頭を突き合わせて突き合い、必死にふんばったままタイミングをはかる。こっちもエネルギーが尽きそうだ。
突き放すように力を込めると、案の定必死に押し返してきた。その瞬間体を開いて身を引き、わずかの間合をつくる。とつぜん支えを失ったようにバランスをくずしたところへ、無我夢中で左の回し蹴りを連続して振ると、二発目が顔面にクリーンヒットした。
「ぐわあ!」白帯は派手にくずれ落ち、顔面を両手で抑えたまま、私の足元でしばらくもがいていた。
強いられたデスマッチは終わった。
私も立っているのが非常につらいほど疲れていた。空手衣はグツショリと濡れ、帯は半分ほどけていた。
「強いじゃないか緑帯」
指導員が皮肉っぽく笑いながら言った。
つぎの日道場に入ると、その白帯がいた。私を見ると「押忍」と言って立ち上がる。右目が真っ赤だ。
「病院へは行ったの?」聞いてみると「押忍」と答え、「.....最後の蹴りは.....見えませんでした」と言いにくそうに言ってからニコリと笑った。
わだかまりはなかった。私としても悪戦苦闘だったが、道場の風潮に流されず闘いぬいた満足感があった。
果たしてこれが正しい武道と言えるでしょうか?
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