兄の自殺で都会から呼び戻された妹(ユキ)はふっとしたことから
兄の自殺の原因について調べる 兄は餓死であった 掃除機のコンセントが
差されたままであることから、彼のメッセージを読み取ろうとするユキ
かつて大学時代心理学を専攻し教授にいたずらをされたことのある
トラウマから幻覚や自発性トランス状態を招くことになる
意識を入れたり抜いたりすることは、病気ではなく才能であるという
シーンが出てくるが良きにつれ悪きにせよ、その通りであると思った
普通の人は記憶の2割から3割しか覚えていない しかしトランス状態に
入った人間は100%覚えてしまう 故にコンセントを抜いてメモリーオーバーを
防がなくては、身体がクラッシュしてしまうのである ユキは兄の自殺は
実は自分が願っていたのではないかと自信を責める 故に兄の死が解決されないと自信のトラウマも解決されない 著者の田口ランディはブログの中で
「私は処女小説の「コンセント」で、兄はなぜ餓死したのか……?という問いに、全身全霊で自分なりの答えを出した。あの小説はそういう小説だったのだ。だけど、実は「兄はなぜ死んだのか……」に答えなどない。それでも問わざるえなかったのは、それが私の兄への鎮魂だったからだと思う。私は小説を書いて喪に服したのだ。

だけど、あの小説を書いてから、私は兄といっしょにあっちの世界に連れて行かれてしまった。猛烈に生きる気力が失せていって、かなり辛かった。たぶん兄の心情に寄りそうあまり、同一化してしまったんだと思う。そして自分も兄といっしょに疑似的な死を体験しようとしてしまったんじゃないかと感じる。

最近、書いている小説が、超越的なトランス体験から離れて現実世界に戻って来ているのは、私があっちの世界から逃げ帰って来ているからだと思う。あのまま行ったら死ぬしかなかった。

ある時、私は「兄がなぜ死んだのか?」を問うことに疲れてしまって、そして「兄はどう生きたんだろう……」と考え出した。客観的な第三者となって兄の人生を見てみたいと思った。そうやって、兄と距離をもち、一人の他人として兄を見ると、兄の人生にもたくさんの人が関わり、恋愛もあり、あんがいとふつうの人生だったように思えてきた。

死ぬということは、誰にも起こる必然であって、なぜ死んだか……ということの意味を問い過ぎると死に魅入られてしまう。人はどう生きるか……でしかない。人はいつか必ず死ぬ。

ここ数年、ずっと「べてるの家」だとか「痴呆老人のグループホーム」にこだわって、関わり続けているのは、兄と同一化してしまった世界から、現実に戻るために他者というものがどうしても必要だったからだと思う。超越的な体験に他者は必要ない。それを求めるなら一人で行くしかない。でも、人は一人では生きられない。絶対に……。

一人では生きられない……ということを、現実的に実感していなかった。なんだか一人で生きている錯覚をもっていた。でも、自分が鬱状態から戻って再び生きるために、必要だったのは「他者」だった。他者とのゆるい寄り合うような関係だった。

小説を書いてから五年たったいま、ようやく喪も終わったみたいだ。いまとなってみると、兄は兄ならではのすごい働きをして、そして自ずからに従ったのだと思える。私は、兄の死を実感し、鷲掴みにしたくて、早く答えが欲しくて、いきなり死の超越性にダイビングしてしまったけれど、人間は生か死か……なんていう白黒はっきりした世界に生きているわけじゃないんだ。

生きながら少しずつ死んでいくような……、生と死の「あわい」の中で生きている。そう竹内先生は言っていた。あわい……って、いい言葉だなあと思った。

この「あわい」のなかで、なにかとてつもないノスタルジックなせつなさを感じつつ、それでも周りに他者がいるので生きていく。誰かが私を見ていてくれるから。そして私も誰かを見ているから。誰かが話を聞いてくれるから、誰かの話を聞いているから……。

そういう、とりとめない、身もだえしそうな曖昧さのなかで、笑いながら、寄り合いながら生きていく」

と述べている