「豊かさと安全」というのは、太古の昔からの人間の願いだが、それが現実的になってくると、「生きる」という事への意欲そのものが減衰してくるようだ。その上、とにかく死なせないための延命医療技術の発達、マスコミ・出版界の差別用語の禁止など、現代は取り敢えず表面的に辻褄合わせをして「いい人」を演ずるためのマニュアルに満ちている。そうした風潮が奈良での高校1年生の放火による家族殺害事件などになって噴出してきていると私には思えてならない。あの放火した高校生も、近所の人達が口を揃えて「いい子だった」という。この事からも、最近の子供達は「いい子を演ずること」を社会から強いられているように思う。このようなことに関しては『身体を通して時代を読む』のなかでもかなり書いたと思うが、あらためて社会がある価値観を決めつけて、それに乗ることを人々に強いている気がする。
 先日のサッカーのW杯などを見ていると、大政翼賛会のような挙国一致ぶりに、「いつの間に、こんなふうになってしまったのだろう」と、私など不気味に思わざるを得なかった。ついでに、このサッカーについて言わせて頂ければ、惨敗理由に「精神力が足りない」などという議論もあるが、要するに「技術レベルが低い」ということであり、動きの質の高いものを求めるのなら、根性によるガムシャラな練習は体を壊すだけで、ほとんど得るものはないだろう。そういう余裕のない練習を重ねて、自らの動きを楽しむように、日本選手より遥かに自在に動いているブラジルの選手などに追いつけるとは絶対に思えない。また、これはサッカーの指導者に申し上げておきたい事だが、相手に当られた時、ファウルをアピールするような大袈裟な倒れ方をするような事や、審判の見えないところでは相手を掴むような小ずるい技を教えるような事は(一部には奨励するような雰囲気もあるようだが)やめて頂きたいと思う。そんなことをするより、相手チームがそうした小ずるい事をしてきても、動きのレベルの違いで圧倒するような選手を育てて頂きたい。そうでないと、「サッカーやってる奴って、他のスポーツに比べて目立ちたがりで小ずるい嫌な奴が多いよね」と言われるような事になってしまう。小ずるいことは、生きていく上で必要だという意見もあるだろうが、そんな人間が増えた日本には生きていたくないと思うような者もまだ少なくないと思う。