年始から読み始めた五輪書を漸く読み終えました。
何度読んでも新しい発見があるこの古典、折に触れて
要約や解説を書いてみたいと常々思い続けてきました。
剣聖 宮本武蔵が五輪書(ごりんのしょ)を書き始めたのが
50歳前後と言われております。
ようやく自分もその年齢になりました
しかしながら現代の50歳とこの時代の50歳では肉体的精神的に
20年は違うと言われています かつては人生50年現代は高齢加社会で
人生80年平均になっています 
武道的にも人間的にもまだまだ未熟者の自分がどこまで武蔵の、実像に
迫れるか、はなはだ疑問ですが仮にも武道を生業にし40年間一つのことを
願いながら生きてきた男の戯れ言だと思い書き記して参りたいと思います。
そう言えば現、皇太子殿下浩宮様は昨日で50歳になりましたが
自身「もう50歳かという感じである」と述べ「まだまだ研鑽が足りない」と
おっしゃっていました。
かつての日本人の感覚ならば50代はもう老人であったでしょうが
現代では働き盛り、人生を四季に喩えるならば夏から秋に入りかけたときと
言えましょう いずれにしても人生を10年で区切るならば10代は早く大人になりたく20代は脇目も触れず通り過ぎていき30代で自らの人生の大まかな境涯が
決まり40代にして覚悟する感覚を拭いきれません。
そして50代、自分の人生をもう一度振り返り総仕上げに向かって次の10年何を
しなければいけないのかを真剣に考える年でありましょう。
武蔵もそうであったに違いありません、30歳までに60数回に及ぶ真剣勝負を
勝ち抜き40代が全く謎に包まれている彼の生涯は五輪書に残された言葉によって解明するしか手立てがありません。
五輪の書の現代的位置付けは、昭和の初期から二つに分かれていました
一つは直木賞で有名な直木三十五の「武蔵最弱説」とそれに異議を申し立てた
菊池寛が大激論を繰り広げた この事を書くだけで大変の量になってしまうので割愛しますが、要は武蔵は本当に強かったのかと言う議論でした
昭和初期に朝日新聞で連載された吉川英治の小説「宮本武蔵」は爆発的な人気を呼び、後世この作品をベースに、いくつもの映画が生まれました。
新しいところでは、平成15年にNHKの大河ドラマとなり、井上雄彦氏のベストセラー漫画「バガボンド」も吉川の小説が原作となっています。
 しかし、描かれている数々の決闘の中には、常識的に考えれば首をかしげたくなるものもあるのは事実でしょう。
慶長7(1602)年ごろ、一乗寺下り松(京都市左京区)で行われた、武蔵と吉岡一門による決闘もその一つであります。
 武蔵によって相次いで「主」が討たれた名門・吉岡道場の門下生は、リベンジを誓い武蔵に挑む。
70人以上の門下生を前に、武蔵はまず大将の吉岡源次郎(又七郎)を一刀両断。一門の剣豪たちを次々と倒し、吉岡道場を壊滅させると言うものはどう考えても吉川武蔵のフィクションであります。
 数々の映画やドラマでも描かれた名シーンだが、いくら史上最強の剣豪といえども、70人を相手にしたら逃げ切ることすらできないのではないかという素朴な疑問が浮かびます。
 司馬遼太郎が「真説宮本武蔵」で描く決闘の様子は明らかに趣が異なります。
武蔵は約束の地に先回り。
暗がりで見えにくい中で近づいてきた又七郎を襲撃。
そして「武蔵は、眼の前の数人を斬りはらって、山中に逃げこんだ。みごとな喧嘩のうまさである」と評しています。
                  ◇
 武蔵といえば、佐々木小次郎を破った巌流島の決闘が有名です。
だが、決闘を見守った細川家側の記録「沼田家記」はこう記しています。

 「小次郎蘇生(そせい)致し候へ共、彼(武蔵)の弟子共参り合せ、後にも打殺し申し候」。
木刀で“殴られた”後、間もなく意識を取り戻す小次郎。
だが、隠れていた武蔵の弟子たちの襲撃に遭い、絶命したというのです。
真偽は定かではなく、小次郎自体も実在の人物かはっきりしていないと言われています バカボンドの武蔵は現代の青年のように明るくさわやかに人を切り
最強を目指して成長していく剣術版スラムダンクでしょう。

その時代によって武蔵像が変わっていくのは当然の成り行きとして
武蔵は五輪書の中で何を伝えたかったのでしょうか…

                           続く