武蔵 五輪書に学ぶ現代武術
 前回、武蔵がいかに勝負に徹した合理主義者であったか様々な文献を元に書きましたが
今回は武蔵が五輪書のなかで何回も繰り返し強調している「実の道」について言及してみたいと思います。
小林秀雄は「実の道」に注目し、ある文献に書いています。
「彼は青年期の六十余回の決闘を顧み、三十歳を過ぎて次のような悟ったと言っている(兵法至極にして勝つにはあらず
おのずから道の器用ありて、天理を離れざるか)勝つと言うこと器用と言うこと、この二つの考えを極めて遂に尋常の意味からは
遙かに遠いものを掴んだように思われる」
「器用とは無論、器用不器用の器用であって決して武術上高級な言葉ではない、器用は小手先の技術を言い、物の道理は
心にある、太刀を器用に使うよりも心の理を知らなければいけないという通念の馬鹿馬鹿しさを彼は自分の経験によって知った
相手が切られたのは自分の小手先によってである、目的を遂行したのは心ではない」とはっきり言ってしまった。

武蔵はこの時代「剣禅一如」「剣は心」と言った通念を馬鹿馬鹿しい物として否定してしまったのです。
剣術という行為のなかで育てられる「道の器用」をなぜ侮辱するのか「小手先」の業を卑下して剣は心だ精神だと理屈に
逃げ込むのは現代にも数多く存在するカリスマ的な武術家にも該当するのではないでしょうか。
現実的に手で椰子の実を叩き切るのは、何の実用性があるのか 試し割りで破壊力を誇示するのは単なる暴力ではないかと
批判するのにも似ています。ならば一度手で椰子の実を破壊して見せろと宣言したのが五輪書なのです。

武蔵は「記号」というものに騙されない人間でした。

「剣禅一如」や坊主の袈裟にも名家の旗印にも、現代で言えば「ブランド」に騙される薄っぺらな人間ではなかったと言うことです
要するに「実の道」とは「有効な行為」のなかにある「器用」を抽出してその意味を普遍的な方法にまでもたらす、一つの行程のことです。
武蔵は「実の道」を貫くこの「器用」は至る所(道)に於いてただ一つの物だと思いました。
器用を馬鹿にして極意がどうの、悟りがどうのという輩は、口先ばかりで何も分かっていないのだとばかりに五輪書は続きます。

一体、武蔵は何のために二十八.九歳まで六十余度の勝負に無敗であったと言うことを書いているのか、その勝利が「兵法至極」に
よる物ではなかったと言うためです、勝ちは単に自分にそこそこの天分(道の器用)があり相手はたまたま!そんな自分よりも弱かったから
勝ちが転がり込んだのだ、ただ、それだけのことであると書いています。
そんなたまたまの勝利を武蔵は決して満足することはなかった、そこに偶然の勝負と手を切るための武学があったのではないでしょうか。
武蔵と戦った様々な相手も「器用の限り」を尽くして彼を倒そうとしている、自分に器用があるように相手にもそれぞれの器用がある。
自分の器用と相手の器用は同じ質の物であることが分かる、しかも、ほんのわずかな程度の違いである、この現実を何とかする物でなかったら
兵法など武士がその生涯を懸けて探求する物ではないだろうと考えたわけです。
この疑問に完璧な答えを見つけるために、更に二十年の月日を費やしたと言えるでしょう。

武蔵は極度に端的に書いています。

自分が十三から二十八,九歳までに行った六十余度の勝負は実につまらぬ物であったと。
自慢や謙虚に全く関心がない武蔵は唯々、自らの経験から「運に頼らない至極」とは結局自分に於いて何だったのだろうか
考え抜いて出した結論こそが「実の道」だったであろう事は五輪書に明らかであると思います。

ここで武蔵が登場する少し前に剣聖と崇められ余にその流儀を確立した天才剣士の話をしたいと思います。
数々の作家や歴史家が最強と謳う上泉伊勢守です 流派や流儀が何百というおびただしい数があるなかで神道流 念流 影流という
三つの流派を極め心影流を確立しました。
伊勢守は袋竹刀という物を発明したことで有名です。
晩年、彼はこの袋竹刀をもって木刀や真剣と立ち会い一度も負けることがありませんでした。
と同時に特筆しなければならないのは、「彼はこうした試合で敗者を作らなかったのです」
彼が作り出したのは喜びに満ちた共鳴者であり同じ理想の火を灯された覚醒者だったのです。

彼は勝つことを創ることに変えた。

いかにして彼我の間に無窮の運動世界を創るかに変えていったのです。
偶然による生死が横行していたこの時代が百年以上続いたその先にこのような流儀が確立されたのは日本武術の軌跡と言われています。

進化とは何でしょうか?

生命体がその環境を自分に課された新しい問いとして立て直し、それに答えることではないでしょうか。
回答に失敗すれば生物種は死滅します。
この回答には文字通り生存を懸けた創造の成否がかかっていたのです。
武蔵にしろ上泉伊勢守にしろそれぞれに身ひとつの工夫で作りかえ、それに回答をした人達だと言えるのではないでしょうか。
                                       続く

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