今日、11月25日は三島由紀夫の祥月命日である
三島由紀夫は今から30年前970年11月25日楯の会隊長として隊員4名共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本庁)に東部方面総監を訪れ、その部屋で懇談中に突然日本刀を持って総監を監禁、その際に幕僚数名を負傷させた。部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促したが、自衛隊員から野次罵声を浴びた。約一時間後に割腹自殺を遂げた。この一件は世間を騒然とさせた(詳しくは三島事件を参照)。

今年、拳成館の夏合宿に参加させていただいたとき山中湖周辺に文学館があり、時間があったので
立ち寄った そこには空手着に身を包み中段正拳突きをしている三島由紀夫の写真が飾ってあった
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三島由紀夫「空手の秘義」より

三島由紀夫「『第十三回全国空手道選手権大会』推薦文」
「正義は力」だが「力は正義」ではない。その間の消息をもつともよく示してゐるのが、
空手だと思ふ。空手は正義の表現力であり、黙した力である。口舌の徒はつひに正義さへ
表現しえないのである。

三島は空手以外でも剣道 居合い 柔道 ボクシングなど様々なスポーツに励んだ。

またボディビルを始めるきっかけとして、細身な上に身長が低いこと、さらに胃弱や虚弱体質に悩んでいた三島は、ある週刊誌のグラビアに取り上げられていた玉利齊(当時、早大バーベルクラブ主将。現在は社団法人日本ボディビル協会会長)の写真と「誰でもこんな身体になれます」というキャプションに惹かれ、早速編集部に連絡を取り、玉利を紹介してもらったことが挙げられる。最初は自宅の庭に玉利を招いて指導を受け、後年は後楽園のトレーニングセンターや、国立競技場のトレーニングセンターにまめに通った。
昔の三島は腺病質で、あるパーティでダンスを共にした美輪明宏から「あら、三島さんのスーツってパットだらけなのね」とからかわれたりしていた(このとき三島は顔色を変え部屋から出て行ったとされる)。後年、飛行機で乗り合わせた仲代達矢がボディビルについて尋ねた時「本当に切腹するとき脂身が出ないよう、腹筋だけにしようと思っているんだ」と答えた。料亭で呑んだ時は、仲居に向かって「腹筋をつまんでごらんなさい」と要求して贅肉のない腹部を誇り、仲間内では「俺はミスター腹筋というのだ」と自慢していたと伝えられる。1948年からの友人中井英夫が小学館で『原色百科事典』の編集に携わっていた頃、ボディビルの項目に載せる写真のモデルにならないかと三島に冗談を言い、そのまま忘れていると、次に会ったとき三島から妙に声をひそめるようにして「この間のボディビルの話ねえ、もし本当なら急いでもらえない? オレ、もしかするとまた外国に行かなくちゃならないかも知れないから」と催促された。それは遠慮深く真剣な口調だったので、中井は三島が本気であると感じ、編集部に話を通して実現の運びとなった。最初は10kgしか挙げられなかったベンチプレスも、鍛錬の結果、晩年は90kgを挙上したという。ボクシングのスパーリングパートナーは石原慎太郎が主であった
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なぜ、これほどの文豪がナルシストに変身し最後は自らの命を抛って生き様に拘ったのだろうか
様々な議論が為されてはいるが、結局、最終的に「男は様々な次元で強さを追求する」生き物なのでは
ないだろうか・・・氏の残された「口下の徒はついに正義さへ表現しえない」という一言は
どんなに英知を磨いても口先だけの男には為るなと言う遺言のような響きを禁じ得ない。