現在 仙台は、電気と水が復旧しており、都市ガスはまだ大半の地域で使えないが、プロパンガスを使用している家はお風呂にも入る事ができるそうだ、コンビ二には食料品があまりないが、飲食店で開いているところは多くあるらしい、相変わらずガソリンスタンドには行列ができているが、日常を少しずつ取り戻しつつあると感じられる。

 しかし、それは津波の被害のなかった内陸部のことであり、同じ仙台でも、海岸部は壊滅的な打撃を受けている。街の中心部から海岸に向けて車を走らせていると、震災などなかったかのような整然とした街並が続くが、ある場所から突然、瓦礫の山になる。津波が達したところと、そうでなかった所の被害の大きさが、あまりにも違うのだ。自然の力というのは、なんとも凄まじく怖ろしい
自然界の力は、人間がそれまでコツコツを築き上げたものを、一瞬にして台無しにしてしまう。
 明治以降、日本は西欧文明を見習って国づくりを進めてきた。西欧文明を真似する為に、西欧の思考や価値観を教育などを通じて身に付けてきた。

 西欧の思考や価値観は、目的を論理的に明確にし、努力し、結果を残すことが重要視されているように思う。なぜそれを行うのかについて、合理的な説明が求められる。それに対して、もともと日本人は、目的について曖昧にすることが多い。日本人は、「なんとなく」とか「まあ、いろいろある」いう言葉をよく使う。目的とか結果を重視しすぎる行為を、打算的と感じるメンタリティも持ちあわせている。

 にもかかわらず、戦後社会では、有名大学に入るために学習し、就職するために資格を取り、相手の出身大学や就職先や給与にこだわって婚活を行うなど、目的指向性の強い行動が、顕著になっていた。

 一度きりのテストの結果を重視し、学歴や役職など努力を積み上げて到達した結果が、その人の評価となった。いつの間にか、目に見える形として人にアピールできる物、証明できる物を獲得することが、人生の目的のようになってしまった。ブランド品で身を固めて町中を闊歩する姿などは、形ばかりの結果を他人に向かって主張する簡便な方法なのだろうし、初めて出会う人に、自分が今何をしているかではなく、自分がどこに所属しているかを語る人も同じだ。

 しかし、もしも人生の価値が、そうした“結果”、すなわち収穫物のなかにしかないのならば、それが津波などの災害によって流されてしまうと、人生は一瞬にして無価値になり、絶望しか残らなくなってしまう。

 学習することも、仕事をすることも、人を愛することも、結果ではなく、プロセスの中にこそ価値がある。プロセスには、いろいろなことが含まれているから、その真意を上手に説明しづらく、「なんとなく」とか、「まあいろいろある」と答えるしかない。

 目的指向性の強い人の問いに対して、“なんとなく”と答えると、苛立つかもしれないし、本気度が低いなどと思われるかもしれない。

 しかし、目的と結果の結びつきを合理的に語る本気度なんてものは、その合理性が通用しない事態に直面すると、たちまち効力を無くす。

 このたびの大災害は、津波という自然災害と、原発という人的災害が同時に起こっているがゆえに、現代の私たちを支配する価値観に対して、きわめて象徴的で啓示的な出来事が、現在進行形で起こっているという気がしてならない。

 その感覚は、一般的に言われている「人間の驕り」や、「環境への影響」や、「安全性」や「利権」などと短絡的な説明で括れることではなく、“いろいろあるよ”という微妙なニュアンスの多彩な側面によって成り立っている。

 原発というのは、目的と結果をことさら重要視し、それを合理的に実現しようとする人間意識が巨大なシステムになったものだと私は思う。

 一つの場所で大量の電力を作り出し、それを広範囲に送り届ける合理的なシステム。他国の戦争など自分には管理できない事態に翻弄されるエネルギーの獲得方法(石油)の代替えとして、自分の中だけで技術を向上させれば管理できそうなシステム。

 動力源こそ違えど、それまでに実績のある火力発電と同じように、蒸気の力を活用してタービンをまわして発電させるという、従来の延長にある“計算できる”システム。

 大量生産、大量物流、大量消費を支えた戦後社会の人間のメンタリティと、原発は無縁でない。一言で言うと「まとめてやれば効率的で、便利だし安くなる」という、目的指向性の高い合理的発想。

 戦前のように、600を超える電力会社があって、それぞれが、それぞれの事情に応じて個別にやると、目的に向かって足並みが揃わないし、効率性の優れた大きなプロジェクトもやりにくいので、単純化するためにまとめた方がいい、規模を大きくして投資効率をよくした方がいいという発想は、原発に限らず、今も日本社会のあちこちに見られる。

 今回の大災害は、原発問題が含まれているがゆえに、よりいっそう、人はなぜ生きるのか、人生の喜びは何なのか、豊かさとは何なのかという根本的な問いとつながっていると思えてしかたない。

 人生の価値を、目的と結果にダイレクトに結びつけるパラダイムが根強く残っているかぎり、たとえ目の前の原発問題を処理できたとしても、別のかたちの原発問題が発生することになるのは明らかだ。水俣病など、かつての公害問題と、現在の原発問題は、同じパラダイムの中にあるのだから。

 今のような苦境に陥った時、救いや希望を新たな目的設定によって見いだそうとする事が多いが、もしそれだけなら、新たな目的を見出せない間、絶望や虚無感に打ちひしがれるばかりとなってしまう。

 一つひとつの人間の行為や関係性を通じて、人間は、人間性への信頼を新たにすることができる。その過程のなかにあることじたいが、救いであり、希望だ。悪徳政治家や保身に走る官僚を見て、人間に失望するのは単純すぎる。今回の災害の最中でも、窃盗をはじめとする犯罪が発生していることも事実だ。しかし、それらはむしろ例外なのだ。多くの人々は、人間としての美徳を保ち続けている。簡単にはめげずに、打ちひしがれそうな自分を鼓舞して、明るく、今目の前にあることに打ち込もうとしている。それが生きることであり、生き甲斐につながっていると、心のどこかで知っている。

 人は誰でもいつか必ず死ぬ。ならば、ゴールとしての“結果”は、誰にとっても死だ。それ以外の結果は、どんなものも、すべて生のプロセスにすぎない。ならば、人の生の充実は、プロセスの充実にしかないわけであり、何をどうすることが充実なのかを考えて知る事が大事になってくるだろう。

 合理的なシステムを作り、楽をしながら自分にとって都合の良い結果だけを追い求めても、充実からは遠くなるばかり。自分の保身とメリットばかり考えて動いていても充実から遠くなるばかり。自分を誇示するために肩書きやブランドで周りを固めても充実から遠くなるばかり。物や人の数を増やせば充実すると思って実践しても、むしろ空疎になるばかり。

 戦後日本人が、自分のなかに蓄積したり自分が消費することが充実だと思っていたのは、西欧から輸入したばかりの個人主義が、自分がそれまで持っていたものより充実していると錯覚していたからにすぎない。

 人生を振り返ればわかることだが、個人に閉じていた時間よりも、誰かを愛している時間の方が、より充実したものであった 生のエネルギーは、自分のことばかり優先するよりも、他者のことを思い、自分を差し出すほどに強まっていく。愛とか生命は、使えば使うほど消耗する消費財のような物ではなく、使うほどに活性化していく“場”のようなものなのかもしれない。それを本能的に知る多くの人が、今、この緊急事態に、自らの愛や生命を、使いたがっている。そのエネルギーが、従来のように、短絡的な目的と結果を求める効率的システムに収斂されて機械部品のようになってしまうのではなく、異なる性質を保ったまま、それぞれに応じた在り方を根気よく模索していくなしに、パラダイムの転換は起こらないだろう。

 パラダイムの転換が起こらないかぎり、今回の災害の後も、しばらく経てば、日本人はこれまで以上に同質と相似を強め、巨大な合理的システムの中で合理的に結果を追求する集団のメンバーとなり、自らの視野狭窄状態に気づかないまま、一つの目的と結果に向かって暴走する可能性だってある。

 1923年に関東大震災が起こり、その影響や世界的な不況の連鎖もあって深刻な経済不況に陥り、1931年には満州事変を引き起こし、世界から孤立して戦争への道を突き進んだ日本人。関東大震災の直前までは大正デモクラシーだった。戦争に突き進んだのは、平和や民主化という単純な目的と結果を掲げ、それに向かって熱狂していた集団であったことは、忘れてはならないだろう。