まだまだ、厳しい状況が続いていますが、昼はZOOMを使ったオンライン稽古、夜は西島洋介さんとの濃厚接触稽古と忙しく過ごしております、スマホの移動履歴も自宅ー道場ーたまにイオンしかないので、感染はありませんが、自分の仕事が(不用)でも(不急)でもないと思うので、1日も早く再開したいのが、正直な気持ちです、折りよく甲野先生から吉本ばなな先生への手紙を目にしたので、少し長い引用ですが、載せさせていただきます

悔いの残ることはしたくない  甲野善紀


*悔いの残ることはしたくない  甲野善紀*



お手紙ありがとうございました。今回の御手紙は、前回以上に、また一段と心に沁みました。そして折も折、いま日本中、いや世界中はCOVID-19(WHOが2月中旬に定めた新型コロナウイルスによる肺炎の正式名称)の感染拡大で大騒ぎをしております。


これが、どの程度危険なのかハッキリとはわからないとはいえ、現段階で感染した多くの人が無症状か、罹ってもまた元気になり、重篤化する人は少ないそうですから、もし一切このCOVID-19に関する情報が拡散されなかったら「今年のインフルエンザは何かちょっと質が悪くて肺炎になることがあるから気をつけてね」という程度の事で済んでいたのだと思います。


ですから、このCOVID-19の感染拡大には政治的なものが感じられ、生物兵器であるとかいう陰謀説が囁かれているのだと思います。まあ陰謀説が正しいかどうかはわかりませんが、各国がこれを政治の道具として国際間の駆け引きや、自国の選挙を有利にするために使っていることは事実だと思います。


私はこの騒動を見ていて、ツイッターにも書きましたが、ヒトラーによるナチスドイツは、こんなふうにして出来上がっていったんだなという、まさにリアルな説明をしてもらっているように感じました。


私は物心がついた頃から、宅地開発などで削られていく丘や林を見ているのが辛くて、そのことを小学3年生の時に作文に書いた事を今でもよく記憶しています。ですから、自然の山や野や川に対する人間の横暴さについては、ずっと憤りに近いものを抱えて生きてきました。


そして、ばなな先生も御存知の通りの衣類に対する強い好みとこだわり(つまり多くの洋服に付いている、着た服が脱げないように留めている物が、ゴキブリ嫌いな人がそれを嫌悪するように嫌いという、他人から見たらおよそ奇妙な、ある種の精神的アレルギー)があったおかげといえばおかげで、普通の公務員や会社勤めなど、スーツや作業服を着る仕事は最初から無理ということもあって、動物を相手にする仕事をしようと思ったのですが、それもすでに申し上げたような畜産の現場が動物好きにはいたたまれないような所でしたので、そこへ行くわけにもいかず、結局十代までは、およそ考えもしなかった武術研究ということを仕事にするようになったのです。


それにしても、今回のCOVID-19拡散での人々の狼狽ぶりは目を背けたくなるものがあります。日頃、愛国主義を唱え、日本精神を鼓舞しているような人達は、こういう時ドンと構えて動じないのかと思っておりましたら、案に相違して慌てふためき、「マスクをしていない者は法で罰しろ」などとコメントしている人もいて、「なんだ、ただの張り子の虎だったか」と、拍子抜けしました。非常時にはその人の本性が出ると言いますが、本当に情けない人がこんなに多いのかと、あらためて愕然と致します。


ただ、日頃から私が深く信頼している方々、野口裕之先生、光岡英稔師範、それに私の長男の陽紀などは全く動じていませんし、私の武術のいわば共同研究者ともいえる信州の江崎義巳氏、名古屋の山口潤氏、1月に『上達論』を私と共著でして出した方条遼雨氏等々も、少しもブレることなく武術の研究に打ち込んでいるようで、これにはあらためて安心いたしました。


その人が人としてどこまで「生きる」という事について、詰めて考えていたかは、何かあった時、わざわざ覚悟を決めることなく、自らの日頃の考え通りに行動できるかどうかに如実に現れるのだと思います。


つい最近フトつけたテレビで、吹雪のなか、ワシントンの空港を飛び立った飛行機が、離陸直後、橋に激突して氷結した川に墜落した事故[注]について紹介していました。この事故は、多くの乗客が死亡した中、僅かに生き残った5人の乗客と乗務員のうち、一人の中年男性アーランド・ウイリアムズ氏が、この飛行機の乗務員も含めた生き残りの乗客全員を、ヘリコプターが救助に来たとき、ロープに掴まるなどの、救出の順番を自分よりも他人に譲り続け、この人物以外全員救助されて、ようやくこの人物だけとなって、ヘリが戻って来た時は飛行機もろとも冷たい川へと沈んでしまっていたという出来事です。テレビを観ていて「ああ、この事故は昔世界中で話題になったなあ」と思い出しました。


すでに知っていた事故でしたが、画面を観ていて思わず熱いものがこみ上げてきました。ただ、画面を観ていて違和感を感じたのは、このエピソードにコメントを寄せているスタジオのコメンテーターたちが皆「出来ない事ですよ」と、多少言うのなら理解出来ますが、「出来ない、出来ない、絶対出来ない」と強調していることでした。


もし私がこのアーランド氏と同じ状況になったら、私も同じように他の人を優先し、自分は最後になったでしょうし、その現場で同じように「自分が最後だ」と言い張る人がいたら「じゃあ、ジャンケンで決めよう。勝った方が最後だ」と、けっこう感動しながら言ったと思います。


私はこの事を自信をもって言えるのは、今から30年ほど前、家族で伊豆の海に行った時に危うく溺死しそうになった経験があるからです。この日、私は当時4歳だった陽紀を背に乗せて、岸から200メートルほど離れたところにあった海のフィールドアスレチックという遊戯施設に泳いで行ったのです。ところが、着いてみるとこの遊戯施設に海から上がるには、かなり段の荒い鉄の梯子を登らねばなりません。


「これはちょっと大変だな」と思って、その梯子を登ろうとすると、背中に乗っていた陽紀が「恐いよ、恐いよ」と言ってしがみついてきます。2〜3度登りかけましたが、どうにも難しそうなので、諦めて岸に引き返すことにしました。そして、岸に向かって少し泳ぎ始めた時、異変が起こりました。突然、手足が粘り付いたように重くなってきたのです。ちょうど「腕立て伏せ」をやっていて、ある時から一気に辛くなってきたような感じです。


スーッと背中に冷たいものが奔りました。そして「泳げる人が溺れるというのは、こういう事か」と、以前から疑問に思っていた事が突然理解できましたが、身体はドンドン動かなくなってきます。「ああ、こういう時、話に聞く『火事場の力』は出ないものか」と思いましたが、「火事場の力」は無我夢中だから出るので、冷静にというか、ゆっくりと真綿で締められるような絶望感に襲われている時に「火事場の力」など出るはずもありません。


この時、私の頭の中にあった事は、ただ一つ「ああ、何とかこの子だけでも助けたい」という事でした。もし私が助かるなら一人になってフワッと浮いて、ゆっくり手足を動かして浮かんでいれば疲労は回復して、また泳ぐことも出来るでしょう。しかし、産毛の先で突くほども「自分が助かろう」などという事は思い浮かびませんでした。その時だったか、少し後だったか、ハッキリしませんが、フト思い浮かんだことは「ああ、これで人の親としては、まあ合格だな」という事でした。


それで、どうして助かったかというと、「もうダメだ」と90パーセントは思ったのですが、この時、幸いゴーグルをしていて、それで海中を見たのです。そうすると、7〜8メートル先に海底からまるでキノコでも生えているように岩が突き出していて、そこまで行けば何とか首から上は水上に出して立つ事が出来そうです。


そこで、「火事場の力」というほどではありませんが、具体的に7メートルほど先に「足を着けて立つことが出来る」という具体的目標が見つかると、人間は頑張れるものですね。何とかその岩の所まで泳いで行って立ちました。すると、足の裏に鋭い痛みを感じます。「あっ、割れたガラスの欠片でもあったか」と思って足元を見ると、ウニがいくつかあり、このウニを踏んだ事がわかりました。しかし、そのウニの痛さは同時に「助かった」ということを、よりハッキリと自覚させてくれました。


そこで、しばらく身体を休め、再び海中を覗くと、今度は10メートルほど先に同じように海底から岩が塔のように伸びてきていて、そこまで行けばまた休めそうです。そうやって海底から伸びてきていた岩を探しながら、岸まで辿り着き、「もう大丈夫だ」と思った時に見た松の緑は、今まで散々見てきた緑とは、やはり違って見えました。


この時のことを思い出すと、もし背中に載せていた子が我が子ではなかったとしても、その子を犠牲にして自分が助かろうなどとは絶対に思わなかったと、確信を持って言えますから、先ほど述べました飛行機事故で川に落ちたアーランド・ウイリアムズ氏が行なった事は、私も、もしその立場にいたら、同じ事をしたと思います。それは私の身近でもそうする人がきっといると思います。


例えば、雀鬼会の桜井章一会長は、2〜3年前でしたか、台風で荒れていた海で波にさらわれ、岩場で下に持っていかれて、身体の上に岩が乗ってきて、どうにもならない状態になったそうです。その時、会長は「ああ、俺死ぬのか…、まあ俺でよかった。誰も俺を助けようとして来るんじゃねえぞ」と思って、冷静に自分の窮地を見ていられる自分に「俺もまあまあだな」と落ち着いて思われたそうです。


すると、また波が来て、身体の上に乗って身動き出来なかった岩を持っていって命拾いしたということです。そして、その時「ワァー、助かった」というより、「なんだ、そういう事か。まだ死なねえのか」という感じだったそうです。桜井会長は麻雀の勝負をしている時、「これ以上勝ったら命はないぞ」と脅されても、キッチリと勝ち切り、奪われそうな命が奪われずに済んだというような事を何度も何度もくぐり抜けてこられた方ですから、その度胸の据わり方は次元が違うのでしょう。


私は自分が桜井会長ほど肝が据わっているなどとは自惚れておりませんが、飛行機が落ちて、冷たい水の中で一刻も早く救助しなければならない時、そこに「アイスマン」の異名で知られたヴィム・ホフ氏のような、  間近くも氷のキューブの中に平気で居られるような人が居た場合は別ですが、普通の人ばかりでしたら、自分が他の人よりも先に救助してもらうなどというような恰好の悪いことは、とてもではありませんが出来ません。まあ全員助かれば別でしょうが、私より後になった人が落命したら「あの時、あの人より先に助けてもらって、見苦しく生き残ったなぁ」と、後々きっと後悔すると思います。 2 


まあ、その後悔は犠牲的精神から生まれたというより、私の見栄のようなものかもしれませんが、「ここぞ」という時に「後々悔いの残ることはしたくない」というのが、私の正直なところです。まあ、これは私の「どうしてもそうしたい」という生き方ですから、人に強制するものでは全くありません。ただ、見栄でもそういう思いを持っている人が他にも居ることは、私としては有難いことではあります。



[注]

この航空機事故は1982年1月13日の夕方、ワシントンが猛烈な寒波に見舞われている中、フロリダのタンパに向かう「エア・フロリダ90便」が飛行場を離陸して1分後に失速して、ポトマック川に架かる橋をかすめ、橋の上に渋滞で並んでいた車数台を巻き込んで、氷結した川面に墜落したもの。


奇跡的に5人が生存していたが、現場はたまたま重なって起こっていた交通事故のせいで、レスキュー隊の到着が遅れる。そして、レスキュー隊が到着したものの、現場の状況から地上からの救出は困難だった。事故から20分後、国立公園管理警察のヘリコプターが飛んで来たが、救助用のヘリではないため救命器具がなく、ロープで一人ずつ岸まで運ぶしかなかった。


そうした中、衰弱の激しそうな者から運んでいったが、2番目に弱っていそうな中年男性アーランド・ウイリアムズにロープを降ろすが、ウイリアムズはロープを傍らにいた人物に渡し、救出の順番を譲ったのである。


この人物を助け出したヘリは再びウイリアムズにロープを降ろすが、ウイリアムズはまた別の人物に渡す。その様子を見ていた隊員は予備のロープを再度ウイリアムズに投げ落とすが、ウイリアムズはこれをまた別の人物に渡した。


こうして何度か岸と墜落現場を行き来したヘリが、最後になったウイリアムズを救おうと戻った時は、もう彼の姿はなかった。  、機体と共にアーランド・ウイリアムズは川底から見つかったが、その時ウイリアムズの身体にはシートベルトが外れない状態でついていた。ウイリアムズはそれを切るナイフ等をヘリに要求してもよかったのだろうが、冷たい水の中で一刻を争う救助作業を、そうした事で遅れさせてはいけないという思いがあったのだろうと言われている。 


この、まさに献身的行為は、多くの人達の感動を呼び、時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンは、ウイリアムズを讃える演説を行ない、自由勲章を贈った。


その後、事故現場となった橋は、このアーランド・ウイリアムズの英雄的行為を永く後世に伝えようと『Arland D. Williams Jr. Memorial Bridge』と改名された。また、ウイリアムズの名の付いた小学校も新設されたという。


アーランド・ウイリアムズ 1982年1月13日没 享年46


今の状況の中、とても大切な事が書かれていると思います(引用不可)

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お手紙ありがとうございました。今回の御手紙は、前回以上に、また一段と心に沁みました。そして折も折、いま日本中、いや世界中はCOVID-19(WHOが2月中旬に定めた新型コロナウイルスによる肺炎の正式名称)の感染拡大で大騒ぎをしております。

これが、どの程度危険なのかハッキリとはわからないとはいえ、現段階で感染した多くの人が無症状か、罹ってもまた元気になり、重篤化する人は少ないそうですから、もし一切このCOVID-19に関する情報が拡散されなかったら「今年のインフルエンザは何かちょっと質が悪くて肺炎になることがあるから気をつけてね」という程度の事で済んでいたのだと思います。

ですから、このCOVID-19の感染拡大には政治的なものが感じられ、生物兵器であるとかいう陰謀説が囁かれているのだと思います。まあ陰謀説が正しいかどうかはわかりませんが、各国がこれを政治の道具として国際間の駆け引きや、自国の選挙を有利にするために使っていることは事実だと思います。

私はこの騒動を見ていて、ツイッターにも書きましたが、ヒトラーによるナチスドイツは、こんなふうにして出来上がっていったんだなという、まさにリアルな説明をしてもらっているように感じました。

私は物心がついた頃から、宅地開発などで削られていく丘や林を見ているのが辛くて、そのことを小学3年生の時に作文に書いた事を今でもよく記憶しています。ですから、自然の山や野や川に対する人間の横暴さについては、ずっと憤りに近いものを抱えて生きてきました。

そして、ばなな先生も御存知の通りの衣類に対する強い好みとこだわり(つまり多くの洋服に付いている、着た服が脱げないように留めている物が、ゴキブリ嫌いな人がそれを嫌悪するように嫌いという、他人から見たらおよそ奇妙な、ある種の精神的アレルギー)があったおかげといえばおかげで、普通の公務員や会社勤めなど、スーツや作業服を着る仕事は最初から無理ということもあって、動物を相手にする仕事をしようと思ったのですが、それもすでに申し上げたような畜産の現場が動物好きにはいたたまれないような所でしたので、そこへ行くわけにもいかず、結局十代までは、およそ考えもしなかった武術研究ということを仕事にするようになったのです。

それにしても、今回のCOVID-19拡散での人々の狼狽ぶりは目を背けたくなるものがあります。日頃、愛国主義を唱え、日本精神を鼓舞しているような人達は、こういう時ドンと構えて動じないのかと思っておりましたら、案に相違して慌てふためき、「マスクをしていない者は法で罰しろ」などとコメントしている人もいて、「なんだ、ただの張り子の虎だったか」と、拍子抜けしました。非常時にはその人の本性が出ると言いますが、本当に情けない人がこんなに多いのかと、あらためて愕然と致します。

ただ、日頃から私が深く信頼している方々、野口裕之先生、光岡英稔師範、それに私の長男の陽紀などは全く動じていませんし、私の武術のいわば共同研究者ともいえる信州の江崎義巳氏、名古屋の山口潤氏、1月に『上達論』を私と共著でして出した方条遼雨氏等々も、少しもブレることなく武術の研究に打ち込んでいるようで、これにはあらためて安心いたしました。

その人が人としてどこまで「生きる」という事について、詰めて考えていたかは、何かあった時、わざわざ覚悟を決めることなく、自らの日頃の考え通りに行動できるかどうかに如実に現れるのだと思います。

つい最近フトつけたテレビで、吹雪のなか、ワシントンの空港を飛び立った飛行機が、離陸直後、橋に激突して氷結した川に墜落した事故[注]について紹介していました。この事故は、多くの乗客が死亡した中、僅かに生き残った5人の乗客と乗務員のうち、一人の中年男性アーランド・ウイリアムズ氏が、この飛行機の乗務員も含めた生き残りの乗客全員を、ヘリコプターが救助に来たとき、ロープに掴まるなどの、救出の順番を自分よりも他人に譲り続け、この人物以外全員救助されて、ようやくこの人物だけとなって、ヘリが戻って来た時は飛行機もろとも冷たい川へと沈んでしまっていたという出来事です。テレビを観ていて「ああ、この事故は昔世界中で話題になったなあ」と思い出しました。

すでに知っていた事故でしたが、画面を観ていて思わず熱いものがこみ上げてきました。ただ、画面を観ていて違和感を感じたのは、このエピソードにコメントを寄せているスタジオのコメンテーターたちが皆「出来ない事ですよ」と、多少言うのなら理解出来ますが、「出来ない、出来ない、絶対出来ない」と強調していることでした。

もし私がこのアーランド氏と同じ状況になったら、私も同じように他の人を優先し、自分は最後になったでしょうし、その現場で同じように「自分が最後だ」と言い張る人がいたら「じゃあ、ジャンケンで決めよう。勝った方が最後だ」と、けっこう感動しながら言ったと思います。

私はこの事を自信をもって言えるのは、今から30年ほど前、家族で伊豆の海に行った時に危うく溺死しそうになった経験があるからです。この日、私は当時4歳だった陽紀を背に乗せて、岸から200メートルほど離れたところにあった海のフィールドアスレチックという遊戯施設に泳いで行ったのです。ところが、着いてみるとこの遊戯施設に海から上がるには、かなり段の荒い鉄の梯子を登らねばなりません。

「これはちょっと大変だな」と思って、その梯子を登ろうとすると、背中に乗っていた陽紀が「恐いよ、恐いよ」と言ってしがみついてきます。2〜3度登りかけましたが、どうにも難しそうなので、諦めて岸に引き返すことにしました。そして、岸に向かって少し泳ぎ始めた時、異変が起こりました。突然、手足が粘り付いたように重くなってきたのです。ちょうど「腕立て伏せ」をやっていて、ある時から一気に辛くなってきたような感じです。

スーッと背中に冷たいものが奔りました。そして「泳げる人が溺れるというのは、こういう事か」と、以前から疑問に思っていた事が突然理解できましたが、身体はドンドン動かなくなってきます。「ああ、こういう時、話に聞く『火事場の力』は出ないものか」と思いましたが、「火事場の力」は無我夢中だから出るので、冷静にというか、ゆっくりと真綿で締められるような絶望感に襲われている時に「火事場の力」など出るはずもありません。

この時、私の頭の中にあった事は、ただ一つ「ああ、何とかこの子だけでも助けたい」という事でした。もし私が助かるなら一人になってフワッと浮いて、ゆっくり手足を動かして浮かんでいれば疲労は回復して、また泳ぐことも出来るでしょう。しかし、産毛の先で突くほども「自分が助かろう」などという事は思い浮かびませんでした。その時だったか、少し後だったか、ハッキリしませんが、フト思い浮かんだことは「ああ、これで人の親としては、まあ合格だな」という事でした。

それで、どうして助かったかというと、「もうダメだ」と90パーセントは思ったのですが、この時、幸いゴーグルをしていて、それで海中を見たのです。そうすると、7〜8メートル先に海底からまるでキノコでも生えているように岩が突き出していて、そこまで行けば何とか首から上は水上に出して立つ事が出来そうです。

そこで、「火事場の力」というほどではありませんが、具体的に7メートルほど先に「足を着けて立つことが出来る」という具体的目標が見つかると、人間は頑張れるものですね。何とかその岩の所まで泳いで行って立ちました。すると、足の裏に鋭い痛みを感じます。「あっ、割れたガラスの欠片でもあったか」と思って足元を見ると、ウニがいくつかあり、このウニを踏んだ事がわかりました。しかし、そのウニの痛さは同時に「助かった」ということを、よりハッキリと自覚させてくれました。

そこで、しばらく身体を休め、再び海中を覗くと、今度は10メートルほど先に同じように海底から岩が塔のように伸びてきていて、そこまで行けばまた休めそうです。そうやって海底から伸びてきていた岩を探しながら、岸まで辿り着き、「もう大丈夫だ」と思った時に見た松の緑は、今まで散々見てきた緑とは、やはり違って見えました。

この時のことを思い出すと、もし背中に載せていた子が我が子ではなかったとしても、その子を犠牲にして自分が助かろうなどとは絶対に思わなかったと、確信を持って言えますから、先ほど述べました飛行機事故で川に落ちたアーランド・ウイリアムズ氏が行なった事は、私も、もしその立場にいたら、同じ事をしたと思います。それは私の身近でもそうする人がきっといると思います。

例えば、雀鬼会の桜井章一会長は、2〜3年前でしたか、台風で荒れていた海で波にさらわれ、岩場で下に持っていかれて、身体の上に岩が乗ってきて、どうにもならない状態になったそうです。その時、会長は「ああ、俺死ぬのか…、まあ俺でよかった。誰も俺を助けようとして来るんじゃねえぞ」と思って、冷静に自分の窮地を見ていられる自分に「俺もまあまあだな」と落ち着いて思われたそうです。

すると、また波が来て、身体の上に乗って身動き出来なかった岩を持っていって命拾いしたということです。そして、その時「ワァー、助かった」というより、「なんだ、そういう事か。まだ死なねえのか」という感じだったそうです。桜井会長は麻雀の勝負をしている時、「これ以上勝ったら命はないぞ」と脅されても、キッチリと勝ち切り、奪われそうな命が奪われずに済んだというような事を何度も何度もくぐり抜けてこられた方ですから、その度胸の据わり方は次元が違うのでしょう。

私は自分が桜井会長ほど肝が据わっているなどとは自惚れておりませんが、飛行機が落ちて、冷たい水の中で一刻も早く救助しなければならない時、そこに「アイスマン」の異名で知られたヴィム・ホフ氏のような近くも氷のキューブの中に平気で居られるような人が居た場合は別ですが、普通の人ばかりでしたら、自分が他の人よりも先に救いうような恰好の悪いことは、とてもではありませんが出来ません。まあ全員助かれば別でしょうが、私より後になった人が落命したら「あの時、あの人より先に助けてもらって、見苦しく生き残ったなぁ」と、後々きっと後悔すると思います。

まあ、その後悔は犠牲的精神から生まれたというより、私の見栄のようなものかもしれませんが、「ここぞ」という時に「後々悔いの残ることはしたくない」というのが、私の正直なところです。まあ、これは私の「どうしてもそうしたい」という生き方ですから、人に強制するものでは全くありません。ただ、見栄でもそういう思いを持っている人が他にも居ることは、私としては有難いことではあります。


[注]
この航空機事故は1982年1月13日の夕方、ワシントンが猛烈な寒波に見舞われている中、フロリダのタンパに向かう「エア・フロリダ90便」が飛行場を離陸して1分後に失速して、ポトマック川に架かる橋をかすめ、橋の上に渋滞で並んでいた車数台を巻き込んで、氷結した川面に墜落したもの。

奇跡的に5人が生存していたが、現場はたまたま重なって起こっていた交通事故のせいで、レスキュー隊の到着が遅れる。そして、レスキュー隊が到着したものの、現場の状況から地上からの救出は困難だった。事故から20分後、国立公園管理警察のヘリコプターが飛んで来たが、救助用のヘリではないため救命器具がなく、ロープで一人ずつ岸まで運ぶしかなかった。

そうした中、衰弱の激しそうな者から運んでいったが、2番目に弱っていそうな中年男性アーランド・ウイリアムズにロープを降ろすが、ウイリアムズはロープを傍らにいた人物に渡し、救出の順番を譲ったのである。

この人物を助け出したヘリは再びウイリアムズにロープを降ろすが、ウイリアムズはまた別の人物に渡す。その様子を見ていた隊員は予備のロープを再度ウイリアムズに投げ落とすが、ウイリアムズはこれをまた別の人物に渡した。

こうして何度か岸と墜落現場を行き来したヘリが、最後になったウイリアムズを救おうと戻った時は、もう彼の姿はなかった。2日後、機体と共にアーランド・ウイリアムズは川底から見つかったが、その時ウイリアムズの身体にはシートベルトが外れない状態でついていた。ウイリアムズはそれを切るナイフ等をヘリに要求してもよかったのだろうが、冷たい水の中で一刻を争う救助作業を、そうした事で遅れさせてはいけないという思いがあったのだろうと言われている。

この、まさに献身的行為は、多くの人達の感動を呼び、時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンは、ウイリアムズを讃える演説を行ない、自由勲章を贈った。

その後、事故現場となった橋は、このアーランド・ウイリアムズの英雄的行為を永く後世に伝えようと『Arland D. Williams Jr. Memorial Bridge』と改名された。また、ウイリアムズの名の付いた小学校も新設されたという。

アーランド・ウイリアムズ 1982年1月13日没 享年46