師範日誌

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国際武術総合空手道連盟と松栄塾の日々の活動をご報告致します また師範の武道教育の柱となっている「魂の設計」について 思うままに書き連ねております 松栄塾 塾生は必見 連絡等も行います.押忍

読書感想記

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本来、身体は手足を動かすときには必ず胴体が協力して動いています。(胴体とは肩から股関節まで、具体的には肩・胸・腹・背中・腰を指します)胴体がよく使えている人の動きはしなやかで強く、スピーディで優雅です。反対に胴体がうまく使えない人は、胴体の動きを手足の筋肉でカバーするため、不自然で疲れやすく、身体に歪みや凝り、固さが生じ、故障や万病を引き起こすことになります。身体本来の力を取り戻し、その能力を引き出すためには、胴体を意識的に動かし鍛える必要があります。

胴体は /ばす 縮める丸める 反るG韻

この三方向にしか動きません。身体の複雑な動きはすべてこの3つの動きのバリエーションにすぎないのです。この3つの動きをしっかり意識し、トレーニングしてゆけば、明確な身体、明晰な頭脳、豊かな心を作ることができます。


“胴体を動かす意識”の開発をされた身体から出る力=胴体力
は心身共に大きな可能性を引き出してくれるでしょう。
飛龍会では意識的なトレーニングの積み重ねによってできた“動きの回路”をそれぞれの世界で無意識に現すことができる、しなやかで強く効率のよい動きで誰もが身体のプロフェッショナルとなることを目指します。

 我々の「手」や「腕」は、胴体を動かす迄もなく自在に動く、「足」も同様だ。しかし、それら自分の身体としての末端をダイナミックに動かそうとしたとき、また、その動きに何らかの意味や価値が必要なとき、単純に自然成長的に動かしている動きでは間に合わない(スポーツの専門やその他芸術などを見れば解ることで、天才を除いて自然に世界レベルになることはない。つまり、ダイナミックに肉体は動かないということだ)。だから、色々なジャンルには身体の動きのためのレッスンが必ずあるのだ。
 問題はその部分だ。それ等のレッスンは、全てジャンル固有の物であると言っても過言ではない。例えば、バレエのレッスンが陸上の短距離走に直接役に立つことはない。だから、そういった意味もあり対症療法的という言い方をしたり、肉体を部分品的に扱う、という言い方を私はするのだ。つまり、そのジャンルだけで成立する動きが悪いのではなく、ジャンルそのものから「身体」を眺め、そこでの運動理論を身体普遍の運動理論だとしているから間違っていると言っているのだ。
 誌面の都合で詳しくは省くが、そういったジャンルの枠を取り払い、人体の構造から眺めた結果「全ての人はダイナミックに動き、そして、身体意識を高めることが出来る」という体操が「伊藤式体操」なのだ。だから普遍性があり、その辺りに転がっている理論ではない、と私は見たのだ。
 そして、その体操が「伸ばす・縮む、反る・丸める、捻り」という胴体の三つの動きに集約させたことが素晴らしいのだ。先に言ったように、腕や足は単独でも動くし、意図的に動かすことも可能だ。しかし、それら腕や足というのは身体から見たとき、胴体の末端だ。だから、その中心になる胴体を三つの動きで動かすことによって、腕や足の動きをコントロールする、と言う世界に例のない体操であり理論だということだ。

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兄の自殺で都会から呼び戻された妹(ユキ)はふっとしたことから
兄の自殺の原因について調べる 兄は餓死であった 掃除機のコンセントが
差されたままであることから、彼のメッセージを読み取ろうとするユキ
かつて大学時代心理学を専攻し教授にいたずらをされたことのある
トラウマから幻覚や自発性トランス状態を招くことになる
意識を入れたり抜いたりすることは、病気ではなく才能であるという
シーンが出てくるが良きにつれ悪きにせよ、その通りであると思った
普通の人は記憶の2割から3割しか覚えていない しかしトランス状態に
入った人間は100%覚えてしまう 故にコンセントを抜いてメモリーオーバーを
防がなくては、身体がクラッシュしてしまうのである ユキは兄の自殺は
実は自分が願っていたのではないかと自信を責める 故に兄の死が解決されないと自信のトラウマも解決されない 著者の田口ランディはブログの中で
「私は処女小説の「コンセント」で、兄はなぜ餓死したのか……?という問いに、全身全霊で自分なりの答えを出した。あの小説はそういう小説だったのだ。だけど、実は「兄はなぜ死んだのか……」に答えなどない。それでも問わざるえなかったのは、それが私の兄への鎮魂だったからだと思う。私は小説を書いて喪に服したのだ。

だけど、あの小説を書いてから、私は兄といっしょにあっちの世界に連れて行かれてしまった。猛烈に生きる気力が失せていって、かなり辛かった。たぶん兄の心情に寄りそうあまり、同一化してしまったんだと思う。そして自分も兄といっしょに疑似的な死を体験しようとしてしまったんじゃないかと感じる。

最近、書いている小説が、超越的なトランス体験から離れて現実世界に戻って来ているのは、私があっちの世界から逃げ帰って来ているからだと思う。あのまま行ったら死ぬしかなかった。

ある時、私は「兄がなぜ死んだのか?」を問うことに疲れてしまって、そして「兄はどう生きたんだろう……」と考え出した。客観的な第三者となって兄の人生を見てみたいと思った。そうやって、兄と距離をもち、一人の他人として兄を見ると、兄の人生にもたくさんの人が関わり、恋愛もあり、あんがいとふつうの人生だったように思えてきた。

死ぬということは、誰にも起こる必然であって、なぜ死んだか……ということの意味を問い過ぎると死に魅入られてしまう。人はどう生きるか……でしかない。人はいつか必ず死ぬ。

ここ数年、ずっと「べてるの家」だとか「痴呆老人のグループホーム」にこだわって、関わり続けているのは、兄と同一化してしまった世界から、現実に戻るために他者というものがどうしても必要だったからだと思う。超越的な体験に他者は必要ない。それを求めるなら一人で行くしかない。でも、人は一人では生きられない。絶対に……。

一人では生きられない……ということを、現実的に実感していなかった。なんだか一人で生きている錯覚をもっていた。でも、自分が鬱状態から戻って再び生きるために、必要だったのは「他者」だった。他者とのゆるい寄り合うような関係だった。

小説を書いてから五年たったいま、ようやく喪も終わったみたいだ。いまとなってみると、兄は兄ならではのすごい働きをして、そして自ずからに従ったのだと思える。私は、兄の死を実感し、鷲掴みにしたくて、早く答えが欲しくて、いきなり死の超越性にダイビングしてしまったけれど、人間は生か死か……なんていう白黒はっきりした世界に生きているわけじゃないんだ。

生きながら少しずつ死んでいくような……、生と死の「あわい」の中で生きている。そう竹内先生は言っていた。あわい……って、いい言葉だなあと思った。

この「あわい」のなかで、なにかとてつもないノスタルジックなせつなさを感じつつ、それでも周りに他者がいるので生きていく。誰かが私を見ていてくれるから。そして私も誰かを見ているから。誰かが話を聞いてくれるから、誰かの話を聞いているから……。

そういう、とりとめない、身もだえしそうな曖昧さのなかで、笑いながら、寄り合いながら生きていく」

と述べている

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映画化された「今、会いに行きます」の市川拓司さんが、
新たなジャンルに挑戦されたと思った 今までは精密なプロット(構成)
からSF的とも言える物語が多い中、今回のテーマはずばり「超人類」
ある平凡な家庭に生まれ両親の愛情に包まれた1人の少年は実は海水に
順応しなければ生きられない新人類であった 子供の頃から身体が弱く
原因不明な咳や熱に悩まされていた少年「弘海」親は子供の身を案じ
スポーツクラブのスイミングに入れるが、ある時、意外な事実が
発覚する・・・親の気持ち 旅立つ子供の心境 様々な感情が身につまされる
作品である


  書評に書いたものは、道場の本棚に置いてあります
   お気軽にレンタルしてください 
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