今日は少年部K−1チャレンジクラス
一週間で一回だけの少年キックボクシングクラス
殆どのメンバーがキックパンツにTシャツで稽古をしている
そこで、ふと考えた
「なぜ、空手着を着ているのだろう?」
かつて空手を始めたとき(もう40年以上前だ)
その当時の先生、小岩駅区役所通りの正晃館道場の鈴木正晃先生は
「空手着の白は白装束の白である つまり、いつ死んでも構わない
という武道的決意の表れを示している」と教えてくれた
ところが、その先生は剛柔流の先生だったので、黒色の空手着を着ていた
黒色の空手着に黒帯を巻くと全身真っ黒でカラスみたいだと思い
絶対、黒の道着は着たくないと思ってしまった。
今、思えば子供に「死ぬ気で習え」と教えていたのだから
すごい話だと思うが、もし本当に稽古中、人が死んだら
道場は絶対潰れるだろうし、「死ぬ気で習え」と今言って
「押忍!!」と言って続けるのは、空手バカ一代の宇野師範代と
押忍 押忍 押忍の河野指導員ぐらいだろうと本気で思ってしまう。
死なないために護身術習っているのに、「死ぬ気でいけ」というのは
やはり、現代では通用しないのではないか。
ならば、なぜ空手着を着るのか、自分なりに考えてみたのだが
一つには、同じ着物を着用する事によって連帯感が生まれるという
事実、道着の中で1人でもTシャツの子がいると、何となく、みんなと
呼吸が合っていない そう、この呼吸が合わないというのは、チームレッスン
になっている現代の習い事では、致命的な欠点になってしまう
連帯感が持てない子供は、孤立し稽古がつまらなくなり辞めてしまう
そして、悲しいかな、その原因は親が勝手にルールをねじ曲げる事から
始まっている 先日、千脇先生が見えたとき
「松栄塾の素晴らしさは、お母さんが稽古中いないところだ
他のスポーツはお母さんが入ってきて、空気を変えてしまう
子供達の連帯感は、ちょっとした事で壊れてしまう」と述べられた
道着を着て帯をきちんと締めるところから、通常と違う、異空間は
始まっている その雰囲気の中でこそ精神と肉体は鍛えられ、
殴ったり蹴ったりの格闘技に子供達が歯を食いしばって鍛錬できるのだと
思う。
もう一つはかなり現実的な事であるが
「自分の行動の選択可能性を縮減し、行動の予期を安定させる力」
を、考えた つまりスポーツクラブで運動をしようと思えば、その日の
運動スタイルを考えなければならない 時にはファションにもこだわらなければ
ならないし、機能性も考えなければいけない、選択の可能性がない
(道着しか着れない)と言うことは、むしろ自由なのである
「今日、空手で何を着ようか」と悩む、行動の予期を安定させ
もっとも機能的な姿が道着だと説明すれば皆、納得するのではないだろうか
考えて見れば、作業着や僧侶の袈裟もそうであろう
余計な所にエネルギーを使わず、シンプルに稽古だけに集中する事の
出来る空手着 毎日の仕事に着を着られる自分は本当に幸せ者だと
気づいた。
一週間で一回だけの少年キックボクシングクラス
殆どのメンバーがキックパンツにTシャツで稽古をしている
そこで、ふと考えた
「なぜ、空手着を着ているのだろう?」
かつて空手を始めたとき(もう40年以上前だ)
その当時の先生、小岩駅区役所通りの正晃館道場の鈴木正晃先生は
「空手着の白は白装束の白である つまり、いつ死んでも構わない
という武道的決意の表れを示している」と教えてくれた
ところが、その先生は剛柔流の先生だったので、黒色の空手着を着ていた
黒色の空手着に黒帯を巻くと全身真っ黒でカラスみたいだと思い
絶対、黒の道着は着たくないと思ってしまった。
今、思えば子供に「死ぬ気で習え」と教えていたのだから
すごい話だと思うが、もし本当に稽古中、人が死んだら
道場は絶対潰れるだろうし、「死ぬ気で習え」と今言って
「押忍!!」と言って続けるのは、空手バカ一代の宇野師範代と
押忍 押忍 押忍の河野指導員ぐらいだろうと本気で思ってしまう。
死なないために護身術習っているのに、「死ぬ気でいけ」というのは
やはり、現代では通用しないのではないか。
ならば、なぜ空手着を着るのか、自分なりに考えてみたのだが
一つには、同じ着物を着用する事によって連帯感が生まれるという
事実、道着の中で1人でもTシャツの子がいると、何となく、みんなと
呼吸が合っていない そう、この呼吸が合わないというのは、チームレッスン
になっている現代の習い事では、致命的な欠点になってしまう
連帯感が持てない子供は、孤立し稽古がつまらなくなり辞めてしまう
そして、悲しいかな、その原因は親が勝手にルールをねじ曲げる事から
始まっている 先日、千脇先生が見えたとき
「松栄塾の素晴らしさは、お母さんが稽古中いないところだ
他のスポーツはお母さんが入ってきて、空気を変えてしまう
子供達の連帯感は、ちょっとした事で壊れてしまう」と述べられた
道着を着て帯をきちんと締めるところから、通常と違う、異空間は
始まっている その雰囲気の中でこそ精神と肉体は鍛えられ、
殴ったり蹴ったりの格闘技に子供達が歯を食いしばって鍛錬できるのだと
思う。
もう一つはかなり現実的な事であるが
「自分の行動の選択可能性を縮減し、行動の予期を安定させる力」
を、考えた つまりスポーツクラブで運動をしようと思えば、その日の
運動スタイルを考えなければならない 時にはファションにもこだわらなければ
ならないし、機能性も考えなければいけない、選択の可能性がない
(道着しか着れない)と言うことは、むしろ自由なのである
「今日、空手で何を着ようか」と悩む、行動の予期を安定させ
もっとも機能的な姿が道着だと説明すれば皆、納得するのではないだろうか
考えて見れば、作業着や僧侶の袈裟もそうであろう
余計な所にエネルギーを使わず、シンプルに稽古だけに集中する事の
出来る空手着 毎日の仕事に着を着られる自分は本当に幸せ者だと
気づいた。
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