前回までは昭和の武蔵論について書いてみたが、いずれにしても吉川英治の宮本武蔵が大衆小説になる
以前と以降では明らかに武蔵の評価が変わったこととなります。
しかし、直木三十五はなぜ故に武蔵が弱いと決めつけたのであろうか?
一つには五輪書における武蔵の明らかに剣聖達とは違った論理の展開があったからであろうと考えられます。
武蔵は剣術を「大工仕事」に喩えて展開をします。
「一流の大工は仕事に入る前、必ず道具の手入れを怠らない」
「仕事に応じて使う道具を変えるのは一流の大工の常套手段だ」
そのような理論が水の巻では様々な角度から展開されます。
直木はまずこれが、気にくわなかった、武士の魂である刀を大工道具に喩えるとは何事かと
また人を切る剣術には深い哲学と理論がなければならない。剣聖「上泉伊勢ノ上」などは
「無刀」と称して我が剣術は天と地と一つ、故に剣はいらないのですとまで喝破している。
しかるに武蔵は武士の魂を単なる大工道具、人を切るための道具と思っている、そんな者が
剣聖であるはずがないと結論しました。
この論理には私たち空手を志してきた者が必ず一度は通り抜けるジレンマが見え隠れします。
自分がフルコンタクトの空手を始めたとき世間では「極真会」を「暴力空手」「喧嘩空手」と
批判し「空手は一撃必殺だから直接加撃制の試合など行ったら死亡者が続出する」と言われました。
それは明らかに「型」と「基本稽古」だけを繰り返し実践制をなくした「舞踊空手」の戯れ言でした。
事実、現在の少年空手の競技人口を見れば明らかに寸止め空手を越えているし、その為フルコンタクトに
寝返る空手団体が後を絶ちません、なかにはフルコンタクトだか寸止めだか分からないルールまで現れています。
昭和の40年代に「空手は決して弱くない」と立ち上がったのは言うまでもなく直接加撃制の極真会館です。
「武術」を持ち出し倒すルールを否定した団体(武術なのだからルールがあるのはおかしいなどという団体も含め)
は、自ら剣など握ったこともないのに「武蔵など弱かった」と嘯く
歴史小説家の戯れ言と同じではないでしょうか。
今までの「五輪書」解説本はほとんど、命のやりとりをしたことがない、
理論家達の展開する五輪書であったように思います。
その中で唯一、その真意を汲み戦いに勝つための執念に変えていった男こそが極真会空手創始者、大山倍達総裁で
あったのでしょう。武蔵は言います「私が六十数度、真剣勝負に望み一度も負けたことがなかったのは、偏に道具の
使い方に長け、その創意工夫を考え続け、なおかつ他の人よりも手先が器用であったからだ」と
戦後の間もなくパワートレーニングをいち早く取り入れ、人のみならず牛や熊とまで戦った大山総裁は真実の強さを
求めてやまなかった。言葉に装飾される難しい理論や講釈ではなく現実的に人間を倒すための手段と器量を徹底的に
五輪書から学んだのではないかと考えられます。
それは武蔵が余り恵まれない人生の最期を迎えたことも含めて人生の指針にしていったのでは、とすら考えてしまうのです。
武蔵の兵法は何流も学ばず、何者も師とせずにやってのけた少年期のいくつかの撲殺から始まっています。
大山総裁の空手も、実は戦後まもなくGHQから弱き人たちを守る実践から始まっていると言われています。
学ばずに実践の格闘から体系を立てた兵法者としては、とても似通っていると考えられます。
当時(武蔵在命)、各流派は複雑精妙なる太刀数を誇っていましたが、それらを誇示したのは営業上の宣伝であり
柳生但馬守も「すべての構え、組太刀は無用のもの」と言っています。
一撃必殺、秘伝、伝家の宝刀などの言葉に飾られた当時の空手界に革命を起こしたのが、現在のフルコンタクト空手であります。
故にその原点(五輪書)を学ぶことは、新世紀に相応しい新しい空手像を創作する上で、とても大切なことではないかと思います。
つづく