私は、最近、長谷川等伯の絵を見た時に考えた宮本武蔵と新陰流の祖である上泉伊勢守信綱の違いのことをイメージしていた。
 等伯は、上泉伊勢守が生きた戦国真っ盛りの時代から、武蔵が生きた天下統一後の間を生きた画家であり、前半の作風と、傑作と言われている後半の松林図屏風で、がらりと作風が異なっている。
 時代としては前半の方が問題が山積みであった。国は乱れていたし、等伯は石川から京都にのぼり、狩野派が君臨する絵画業界に挑戦状を叩き付けるように戦っていた。その頃の等伯の絵は、なんとも潔く、力強い。その力強さは、物事を詰め込んで武装することによって得られているのではなく、その逆に現象を削ぎ落して宇宙の摂理に元づいた骨格だけが示されているにもかかわらず、それを見る者も、なんだか合点がいく潔さなのだ。
 同時代に生きた新陰流の伊勢守の剣術も、そういうところがある。戦国の世で死と背中合わせの状況において、100%負けない剣は、実は、他者と戦ったり上手にかわすためのトレーニングを積み重ねることで得られるものではなく、ひたすら自分の中心に向き合って自分の軸を定め、環境がどうであろうが、相手がどうであろうが、軸がいっさいぶれないようにするための一人稽古によって培われる。自分が未熟なうちに他者と組み合ったりして、かわすことや、隙を見て打ち込むことを覚えようとすると、手先ばかりに神経がいき、バランスを崩し、軸がぶれてしまう。そういう練習の積み重ねで100%負けない域に至る筈がなく、真の戦いがなくなった平和な江戸時代に生まれた剣道は、その類だ。真剣勝負の戦国時代においては、たった1%が命取りだと強く自覚したうえで、それを乗り越えるための術を自分のなかに作り出す必要がある。自分の軸を完全なものにしたうえで、垂直に、斜め45度に、剣をふりおろすこと。完全なるまっすぐに。言葉で書くと簡単に思えるが、どんな状況でも”まっすぐに”というのは、簡単にできるものではない。人というものは、意識しようがしまいが、外界の刺激を受けて、その影響で、自分のアウトプットが歪められるものだから。思いもかけない方向から突然声をかけられたら、ビクッとして、構えたり、引いたりして、身体の軸がぶれるのが普通だろう。アーティストと呼ばれる人たちも、自分を表現すると言いながら、世間の評判に一喜一憂する自分がいることを知っているし、それによって、”まっすぐさ”が歪められてることも多い。
 ”まっすぐ”というのは、外界の刺激がどうであれ、まったく動じない自分ができていないと、なかなかできないものなのだ。つまり相手がどこからどのようなタイミングで切ってこようが、その気配を察した瞬間、相手の動きに応じる必要はなく、ただまっすぐに垂直か斜め45度に剣をふりおろすことができれば、確実に、相手の手首を切り落とすことができる。相手の身体を切ろうと力んで踏み込むと、当然ながら先に手を出した方が優位。しかし、手首を切ると徹すれば、相手に先に手を出させた方がいい。じっと動かないと、次の動きが見えない。しかし、こちらを切ろうとして前方に動き出してくる手首は、その後、どういう動線を描くか、手を出した時に定まってしまう。その動線を読める者は、相手の剣が自分の胴体に届く前に、その手首を確実に切落とすことができる。手首を切られれば剣を持つことはできないから、死しかない。相手も一流なら、手首を切られる直前に察して身体を引く。そして、どう切り込んでも手首を切られると悟る。手を出さなければ手首は切られない。そうすると戦うことじたいを諦めざるを得ない。戦わずして制することができる。
 こんなに単純化して書くと叱られることはわかっている。生と死の究極の狭間で生きることは、もっと底深いものだ。ただ、剣術に限らず、本当に極限のなかで生きざるを得ない状況に陥ると、その状況に対して、どのように対応するか、あれこれ中途半端な手を打っても、一つの解決が別の問題と矛盾を生み出す堂々めぐりとなることは多い。現代社会の複雑な問題は、そのようにして生み出されている。原発推進と反対の対立もまた、そこに含まれる。一つの解決は、異なる問題を生むのだ。
武蔵は、関ヶ原の合戦の焼け野原から人生を始めた。最初に、荒涼たる無があった。しかし、その後は、多少の駆け引きはあったものの、本当の意味での真正面からの戦いが消えた。生と死の極限の狭間で生きざるを得ない時代ではなくなっていた。
 つまり武藏にとっての戦いや敵は、必然的に存在していたものではなく、自分で作り出していったものだったのだ。それは仮想敵だ。
 実は、戦後日本社会も、似たようなところがある。社会の中に、政府をはじめ、いろいろと戦う相手が存在しているかのように行動している人は大勢いるのだけど、戦っても戦っても、似たような敵が出てくる。なぜそうなるかというと、その戦っている相手は、実は自分自身の中から作り出されているものだからだ。特定の政治家や官僚が悪いのではなく、その政治家や官僚を作り上げているものは、この時代を生きる大勢の無意識と意識の集合体なのだ、きっと。
 そのことはこの場では脇において、武藏がそうであったように、仮想敵を作り出す人間にとって一番乗り越えなければいけない本当の敵は、自分自身。その意味で、武藏は正直であった。自分を振り返ることなく、自分もその一員として作り出している体制だけを攻撃する不正直者は、現代社会には多い。
 それはともかく、武藏は、自分の正直を確認していくかのように、人を切っていった。そして、切りながら考え続けた。その思考は、100%負けない剣という具体的事実に向かっていった伊勢守の思考とは違う。死とか肉体とかの具体的事実があり、それらの事実や事物との関係性を通じて、自分とは何か、世界とは何かという抽象的な概念へと陥っていく。長谷川等伯が、京都で狩野派との戦いを経てそれなりのポジションを獲得したものの、秀吉による天下統一の後の朝鮮出兵や息子の死に直面しながら描いた「松林屏風図」の、とめどない思考の積み重ねの広がりが一つの奥行きのある宇宙になっている画に通じるものを私は感じる。LL_187