開けましておめでとうございますから、約一ヶ月経過してしまいました
最近は,ノート(NOTOhttps://note.com/syoeijukuばかり書いていて、他の人の記事も面白く
(格闘家の青木さんの記事が為になる)なかなか、Blogを更新できませんでした。
もはや、このBlogもWEBサイトの亡骸になるのかと思いきや、毎日百人以上のアクセスがあり
やはり、松栄塾の長い歴史を綴ったこのBlogを書き続けようと決意致しました。

思えば、Blogのログを見ていると、なぜ、この期間に記事がないのだろうと、過去を振り返り
その時はこんな苦労をしていて、Blogどころではなかったことに気づきます。
そういう自分の歴史に気づくことができるWEB上の日記の役目もこのBlogにはあると思います。

一月はそれこそ、毎週試合の遠征があり、少し疲れました(笑)
12日は名古屋全日本ジュニアチャンピオンシップに西村匡生と重松栄麻選手が代表権を勝ちとり
出場致しました、匡生はお父さんを亡くして初めての試合、弔い合戦として是非、勝ちきって欲しかったのですが、残念ながら一回戦で負けてしまいました、勝負は非情です、どんな勝ちたい気持ちがあっても流した汗は嘘をつかない、そのことを父元成さんは教えてくれたのかも知れません。

栄麻は昨年と同様、1回戦は勝つものの2回戦でまた、意味もなく負けてしまいました
はっきりとした、敗因があるわけでもなく、何となく負けてしまう、昨年から同様のスランプに陥り
まだ、抜け出しては、おりません。
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19日初めての大阪遠征も同じ結果でした  この日はすこぶる調子も良く、1回戦は中段膝蹴りで
一本勝ちを修めるも、昨年度優勝者の選手に焦っての上段膝蹴りを二回も出してしまい(名古屋は上段膝ありでしたが、こちらは禁止でした)反則を取られ判定負けとなりました。
大阪府立体育館から肩を落とし、東京に帰る姿は、1993年正道会館ワールドカップで、1回戦シュートボクシングのチャンピオンに勝つも2回戦、当時、正道常勝軍団の玉城選手に負けて、ガッカリ帰る
父親と全く同じでした。唯一、違ったのは父はその後、食い倒れの街でやけ食いをし娘は、新世界の通天閣のふもとでプールに入り負けたことなど、意に介さず遊びまくったところでしょう。
その姿からもこの、娘はもはや父を越えていると確信しました。
勝って驕らず、負けて腐らず、いつかはこの大舞台で一番高い表彰台に上がることを目標に精進していきたいと思います。

26日には鈴木会長 大澤師範代がOYAZI王座決定戦に挑戦しました
鈴木会長は前回の敗北を反省しこの日の為に、毎日稽古に参加されました、自営業の社長として
責任ある仕事を毎日遅くまで行いながら、疲れた身体に鞭を打ち試合に挑戦する、これほど
素晴らしい闘志はないと思いました。1回戦、見事な判定勝利をもたらし、2回戦で当たった優勝者に
勝っていれば、優勝していたことでしょう、しかしながら、どんなトロフィーよりも輝かしい「親父の背中」をみせてくれた会長と大澤親分に心からの賛嘆の言葉を贈りたいと思います。


ほぼ、毎週試合で遠征しておりましたが、昨日は今年度初めての松栄カップを道場で行いました
西村匡生も重松栄麻も幼稚園児の頃から松栄カップで鍛えられ今の代表選手があります。
今後、隔月と言わず練習試合を増やして、そこで組手の原理原則を習い一人でも多くの代表選手を育成して参りたいと思います。
今回の練習試合で一番技が切れていたのは、低学年優勝の大野琥太朗でした。
昨年は組手が嫌で空手を辞めると言っていた琥太朗がどうしてこんな、短期間で変われるのか
不思議に思いましたが、そこは、やはりお父さんお母さんの励まし激励、期待があったと思います。
少年は父と母に喜んでもらえるのが最大の幸福です、過度の期待は本人を潰しますが、子供を信じ
応援するご父兄の存在は誠に大きい、これからも保護者会を選手保護者会に変更しお父さんお母さんに
最大の応援をお願いしたいと思いました。

いよいよ、伝統の二月、ここで頑張った者が次の松栄塾ヒーローに変貌します。
3月からの試合を完全勝利するため、皆で頑張って参りましょう。


第一回 松栄カップ  2020年2月2日

型の部  優勝 玉置秋音   準優勝  重松栄麻

幼児一年の部 優勝 田中春太 準優勝  大野あかり 第3位 加納双葉
低学年の部 優勝 大野琥太朗 準優勝  鈴木大心  第3位 下門海斗 敢闘賞 赤堀ニコ
高学年の部 優勝 重松栄麻  準優勝  加納壱也  第3位 下門大翔