昨週より身体の調子が悪く、力が入らない状態が、続いておりました、金曜日に左腕の痺れを感じ、昔お世話になった森山記念病院に行き検査を受けました、以前、脳梗塞になった時、少年部のお父様であった脳外科の石田敦士先生が、見てくださり、脳梗塞の再発が確認されました。緊急の事だったので一旦道場に戻り、多分食べられなくなると予想して牛丼の大盛りを掻き込み、そのまま入院と、なりました、松栄塾生始めエクササイズの生徒様、関係各位の皆様にご心配をおかけしましたが、本人は極めて元気で、言語障害や運動機能低下は全く起きてなく、リハビリ検査でも、満点を取り握力も70キロを超えているので、大丈夫ですが、暫くは休むことになります。非常事態宣言も起きそうなので、これを機会に悪くなっている部分は、すべて直して人生の借金を返してしまいたいと思っております この機会に様々な書き物や読めなかった文章を、読んでおりましたら、今の気持ちにとっても為になる甲野先生の文章に巡り合ったので、長文ながら、引用させていただきます、皆様の武道に対する考え方の一考になれば幸いです
私が専門としております武術・武道の世界の問題です。私は現在の武術研究に入る前は、ずっと合気道を稽古しておりまして、そこで直面した疑問点が合気道ではどうにも解決がつきそうもないと思っておりました時、思いがけない事が起きて、いきなり合気道を辞めるに至ったわけですが、その思いがけない出来事の根本的な原因でもあります「現代における武道の位置」という事について、あらためて最近深く考えさせられております。
その理由の一つは、合気道界では非常に有名な方の孫にあたる方が、私の所を訪ねられ、現在の合気道の問題点について、いろいろと話を聞きたいとの事で、私も前例がないほど率直端的に合気道の問題点について話したのですが、その後、折に触れてこの問題について考えておりますうちに、「命を大事にすること」と、「生物学的に、ただ命を永らえる事」との間には、大きな距離がある、という柊さんのお考えとも、この問題はリンクしているように思えてきましたので、その事をちょっとお話ししたいと思います。
合気道は開祖の植芝盛平という人物が大変な天才であったため、柔道のように組み付いてくる相手に対しても、ボクシングのように殴ってくるような相手に対しても、さらには剣道家のような竹刀を持って打ち込んでくる相手に対してさえも、見事な対応をして、そうした挑戦者を感嘆させ、その名を轟かせたわけですが、そのため、その跡を継ぐ人達にとっては大変な課題を背負わされてしまいました。
つまり、殴ってこようと組みついてこようと、時には竹刀などで打ちかかってきても、それを「圧倒的な技で退ける」という天才の道を継承するという問題です。もちろん誰もがそのような事など出来るわけはないのですが、そういう事をやって見せた開祖の跡を継ぐ者としては、ある程度でもそうした技に憧れて集まって来た人達を、それなりに納得させる事をしなければならず、その結果、妙な背伸びをしなければならなくなったようです。
つまり、「合気道とは心を鍛える事であり、技は末のことで、技が出来るとか出来ないなどというレベルの低い事にこだわっていても仕方がない」といった考え方を打ち出すことです。そう言っていれば、取り敢えず技がそれほど出来なくても何とか格好はつきます。ただ、それで本当にその人自身の心がちゃんと育まれるかといえば、それは当然ながら大きな疑問符が付きます。確かに「技よりも心」という考え方があってもいいと思いますし、ほんとうに「技より心」ということを可能に出来れば、それは浄土真宗の篤信者の究極の形として知られる「妙好人」のようなものでしょうから素晴らしいことです。
妙好人のような術技を捨てた武術家を考える上で一つの参考になるかと思うのが、典型的な妙好人の一人、赤尾の道宗のエピソードです。このエピソードを私の意訳を交えて紹介してみます。
ある日、道宗が草取りをしている時、かねてから道宗が大変に人徳があるという噂を聞いていたある僧(天台宗の僧ともいわれています)が、人徳者という道宗の仮面を剥がしてやろうと、作業中の道宗を後ろから蹴倒します。ところが、蹴り倒された道宗は、まるで自分が足をすべらせて倒れ込んだかのように、つまり他人に何か攻撃されてうろたえる、といった様子をまったく見せずに起き上がり、再び草取りを始めたのです。これには僧も驚いたようですが、再度道宗を蹴倒したところ、また何事もなかったように起き上がって、今まで続けていた草取り作業を続けます。この対応を見て、さすがに蹴倒した僧も感じ入り、「おまえは人から理由もなく、このような仕打ちをされて腹が立たないのか」と思わず尋ねたところ、「前世の借金払いだ。まだまだあるかもしれん」と平然と答えたということです。
つまり道宗にとっては「我が身に起こることはすべて必然である」ということを、本当に心の底から納得し、すべては阿弥陀如来にお任せし、「自分はただただ『南無阿弥陀仏』と称えるだけ」ということに徹して生きることが出来るようになっていたのでしょう。
まあ合気道は護身の法である武道ですから、ここまで本願他力の浄土系の仏教のような形をとることもないと思いますが、それならば、その心が練られた境地というのは一体どうやって確かめられるのでしょうか。
最近この事について人に話をしていて、フトある禅の修行者と師家の問答を思い出しました。それは、次のようなものです。ある師家の所に気鋭の修行者がやってきました。師家はその修行者にお茶を出し、お茶を出した時に「森羅万象、悉くここにあり」と言いました。すると、その修行者は、いきなりその茶碗を蹴飛ばしてお茶をまき散らし「森羅万象何処にか去る」と師家に鋭く詰問を発しました。
ここで、その師家の道力が大したものでなければ、顔色を変えてうろたえるか、口ごもるか、当惑したのでしょうが、この師家はそれなりに力のあった人のようで、その挑戦者の意表をついた行動に対して少しも動揺せずに「ああ惜しむべし、一杯の茶」と返したそうです。これには気鋭の挑戦者もグッと詰まり、これを勝負に例えるなら、軍配は師家の方に上がったという事です。
この状況を合気道で「心を練るのが第一で、技は末の事だ」と言っている人に応用して試したらどうなるでしょう。まあ一例を挙げるなら、先ほどの禅のエピソードの応用として「合気道は技よりも心が大事だ」と言っている人に、いきなり自分の持っていた茶碗の茶を浴びせかけ、「心が出来ている人はこういう時どうするのか見せてください」と言ってみるという事です。
今時そんな事をする人はまずいませんから、「心が大事だ」と言っていても、そのレベルを実地で試されることは、まず起こらないわけですが、私は「心が大事だ」という以上は、思いもかけない事が起こっても、その事にちゃんと対応することが出来なければ本当に虚しいことだと思います。
以上、お話ししました事が、柊さんのお手紙を読ませていただいて、なぜ突然に私の頭の中に浮かんできたのか、当初は私自身不可解でしたが、次第に自分の考えを整理しているうちに、COVID-19の感染対策も、合気道の関係者の対応も、どちらも当面の事態への対応であり、本質的な問題に対しては何も考えていないに等しいという事が共通していることが判ってきました。
いま大阪、そして東京では、感染者と称する新型コロナウイルスの陽性者が、今までになく増加してきて「まん延防止等重点措置」が発せられているようですが、昨年からずっと「極力感染が広がらないように」と抑えていれば、感染が爆発的に広がる可能性もずっと保持されたままではないかと思うのです。「罹る者は罹る」としておかないと、なかなかこの感染症の出口が見えてこないように思います。
現代は一昔前に比べると、考えられないほど医療が発達し、そのため「罹る者は罹る」という風に自然の流れに任せることが、もはや叶わなくなってしまったようです。このことを良いことだと多くの人は思っているようですが、私はそれが現代人の不幸であるように思えてなりません。とりあえず「生物的に命を保っていることが最優先だ」という考え方の貧困さについては、すでに私のTwitterを始め、この往復書簡の中でも触れたと思いますが、言ってみれば人間の浅知恵により身動き取れなくなってしまっているように思われます。
つまり「人が生きているとはどういうことか」という根本的な問いかけを全く無視して、とりあえず誰もが分かりやすい「感染症にかからないことを最優先にする」ということに気持ちが囚われてしまっているために、どうにもならなくなっているように思います。「人としてどういう風に生きていくことが本来の人としてあるべき姿か」ということを、現在の様々なしがらみや前提を取っ払って考えてみることこそが、最も根本的な感染症対策であり、単に感染対策というより、今後の環境問題も含めた「人間の生き方」そのものを考えることにもなると思います。
これと同じことが現在の合気道の世界にも言えて、とりあえず植芝盛平開祖が行なっていた形を真似するという事を行なっているだけでは、合気道が本当に評価される日はまず来ないでしょう。もし他の武道界、格闘技界からも本当に敬意をもって合気道が見られるためには、「その技を本当に有効にするにはどうしたらいいか」ということを全て一から組み直す事が必要であり、そうした根本的見直しこそが、本当の意味で合気道を新たに生まれ変わらせることになるのではないかと思います。ですが、現状を見る限り非常に難しいように思います。ただ、こうした根本的改革の難しさは、何も合気道に限りません。
今回は私が深く関わっている武術・武道の世界を例にしましたが、現在の「受験のため」が一番メインになっている学校教育の問題も、合気道が抱えている問題と、多少内容は違いますが、見た目の辻褄合わせという点では同じことだと思います。
これからの時代はさまざまな環境問題など「待ったなし」の問題が山積しています。ですから、これからの時代は本音を率直に言い、現在の問題に勇気をもって取り組んでいかなければ、多くのややこしい問題は、ますますこじれてきて、人間にとって、より良い未来は来ないと思います。広い視野を持ち、根本的なことに目を向けて「人間のあるべき姿」を考えられる方が、一人でも増えることを 願わずにはいられません。
私が専門としております武術・武道の世界の問題です。私は現在の武術研究に入る前は、ずっと合気道を稽古しておりまして、そこで直面した疑問点が合気道ではどうにも解決がつきそうもないと思っておりました時、思いがけない事が起きて、いきなり合気道を辞めるに至ったわけですが、その思いがけない出来事の根本的な原因でもあります「現代における武道の位置」という事について、あらためて最近深く考えさせられております。
その理由の一つは、合気道界では非常に有名な方の孫にあたる方が、私の所を訪ねられ、現在の合気道の問題点について、いろいろと話を聞きたいとの事で、私も前例がないほど率直端的に合気道の問題点について話したのですが、その後、折に触れてこの問題について考えておりますうちに、「命を大事にすること」と、「生物学的に、ただ命を永らえる事」との間には、大きな距離がある、という柊さんのお考えとも、この問題はリンクしているように思えてきましたので、その事をちょっとお話ししたいと思います。
合気道は開祖の植芝盛平という人物が大変な天才であったため、柔道のように組み付いてくる相手に対しても、ボクシングのように殴ってくるような相手に対しても、さらには剣道家のような竹刀を持って打ち込んでくる相手に対してさえも、見事な対応をして、そうした挑戦者を感嘆させ、その名を轟かせたわけですが、そのため、その跡を継ぐ人達にとっては大変な課題を背負わされてしまいました。
つまり、殴ってこようと組みついてこようと、時には竹刀などで打ちかかってきても、それを「圧倒的な技で退ける」という天才の道を継承するという問題です。もちろん誰もがそのような事など出来るわけはないのですが、そういう事をやって見せた開祖の跡を継ぐ者としては、ある程度でもそうした技に憧れて集まって来た人達を、それなりに納得させる事をしなければならず、その結果、妙な背伸びをしなければならなくなったようです。
つまり、「合気道とは心を鍛える事であり、技は末のことで、技が出来るとか出来ないなどというレベルの低い事にこだわっていても仕方がない」といった考え方を打ち出すことです。そう言っていれば、取り敢えず技がそれほど出来なくても何とか格好はつきます。ただ、それで本当にその人自身の心がちゃんと育まれるかといえば、それは当然ながら大きな疑問符が付きます。確かに「技よりも心」という考え方があってもいいと思いますし、ほんとうに「技より心」ということを可能に出来れば、それは浄土真宗の篤信者の究極の形として知られる「妙好人」のようなものでしょうから素晴らしいことです。
妙好人のような術技を捨てた武術家を考える上で一つの参考になるかと思うのが、典型的な妙好人の一人、赤尾の道宗のエピソードです。このエピソードを私の意訳を交えて紹介してみます。
ある日、道宗が草取りをしている時、かねてから道宗が大変に人徳があるという噂を聞いていたある僧(天台宗の僧ともいわれています)が、人徳者という道宗の仮面を剥がしてやろうと、作業中の道宗を後ろから蹴倒します。ところが、蹴り倒された道宗は、まるで自分が足をすべらせて倒れ込んだかのように、つまり他人に何か攻撃されてうろたえる、といった様子をまったく見せずに起き上がり、再び草取りを始めたのです。これには僧も驚いたようですが、再度道宗を蹴倒したところ、また何事もなかったように起き上がって、今まで続けていた草取り作業を続けます。この対応を見て、さすがに蹴倒した僧も感じ入り、「おまえは人から理由もなく、このような仕打ちをされて腹が立たないのか」と思わず尋ねたところ、「前世の借金払いだ。まだまだあるかもしれん」と平然と答えたということです。
つまり道宗にとっては「我が身に起こることはすべて必然である」ということを、本当に心の底から納得し、すべては阿弥陀如来にお任せし、「自分はただただ『南無阿弥陀仏』と称えるだけ」ということに徹して生きることが出来るようになっていたのでしょう。
まあ合気道は護身の法である武道ですから、ここまで本願他力の浄土系の仏教のような形をとることもないと思いますが、それならば、その心が練られた境地というのは一体どうやって確かめられるのでしょうか。
最近この事について人に話をしていて、フトある禅の修行者と師家の問答を思い出しました。それは、次のようなものです。ある師家の所に気鋭の修行者がやってきました。師家はその修行者にお茶を出し、お茶を出した時に「森羅万象、悉くここにあり」と言いました。すると、その修行者は、いきなりその茶碗を蹴飛ばしてお茶をまき散らし「森羅万象何処にか去る」と師家に鋭く詰問を発しました。
ここで、その師家の道力が大したものでなければ、顔色を変えてうろたえるか、口ごもるか、当惑したのでしょうが、この師家はそれなりに力のあった人のようで、その挑戦者の意表をついた行動に対して少しも動揺せずに「ああ惜しむべし、一杯の茶」と返したそうです。これには気鋭の挑戦者もグッと詰まり、これを勝負に例えるなら、軍配は師家の方に上がったという事です。
この状況を合気道で「心を練るのが第一で、技は末の事だ」と言っている人に応用して試したらどうなるでしょう。まあ一例を挙げるなら、先ほどの禅のエピソードの応用として「合気道は技よりも心が大事だ」と言っている人に、いきなり自分の持っていた茶碗の茶を浴びせかけ、「心が出来ている人はこういう時どうするのか見せてください」と言ってみるという事です。
今時そんな事をする人はまずいませんから、「心が大事だ」と言っていても、そのレベルを実地で試されることは、まず起こらないわけですが、私は「心が大事だ」という以上は、思いもかけない事が起こっても、その事にちゃんと対応することが出来なければ本当に虚しいことだと思います。
以上、お話ししました事が、柊さんのお手紙を読ませていただいて、なぜ突然に私の頭の中に浮かんできたのか、当初は私自身不可解でしたが、次第に自分の考えを整理しているうちに、COVID-19の感染対策も、合気道の関係者の対応も、どちらも当面の事態への対応であり、本質的な問題に対しては何も考えていないに等しいという事が共通していることが判ってきました。
いま大阪、そして東京では、感染者と称する新型コロナウイルスの陽性者が、今までになく増加してきて「まん延防止等重点措置」が発せられているようですが、昨年からずっと「極力感染が広がらないように」と抑えていれば、感染が爆発的に広がる可能性もずっと保持されたままではないかと思うのです。「罹る者は罹る」としておかないと、なかなかこの感染症の出口が見えてこないように思います。
現代は一昔前に比べると、考えられないほど医療が発達し、そのため「罹る者は罹る」という風に自然の流れに任せることが、もはや叶わなくなってしまったようです。このことを良いことだと多くの人は思っているようですが、私はそれが現代人の不幸であるように思えてなりません。とりあえず「生物的に命を保っていることが最優先だ」という考え方の貧困さについては、すでに私のTwitterを始め、この往復書簡の中でも触れたと思いますが、言ってみれば人間の浅知恵により身動き取れなくなってしまっているように思われます。
つまり「人が生きているとはどういうことか」という根本的な問いかけを全く無視して、とりあえず誰もが分かりやすい「感染症にかからないことを最優先にする」ということに気持ちが囚われてしまっているために、どうにもならなくなっているように思います。「人としてどういう風に生きていくことが本来の人としてあるべき姿か」ということを、現在の様々なしがらみや前提を取っ払って考えてみることこそが、最も根本的な感染症対策であり、単に感染対策というより、今後の環境問題も含めた「人間の生き方」そのものを考えることにもなると思います。
これと同じことが現在の合気道の世界にも言えて、とりあえず植芝盛平開祖が行なっていた形を真似するという事を行なっているだけでは、合気道が本当に評価される日はまず来ないでしょう。もし他の武道界、格闘技界からも本当に敬意をもって合気道が見られるためには、「その技を本当に有効にするにはどうしたらいいか」ということを全て一から組み直す事が必要であり、そうした根本的見直しこそが、本当の意味で合気道を新たに生まれ変わらせることになるのではないかと思います。ですが、現状を見る限り非常に難しいように思います。ただ、こうした根本的改革の難しさは、何も合気道に限りません。
今回は私が深く関わっている武術・武道の世界を例にしましたが、現在の「受験のため」が一番メインになっている学校教育の問題も、合気道が抱えている問題と、多少内容は違いますが、見た目の辻褄合わせという点では同じことだと思います。
これからの時代はさまざまな環境問題など「待ったなし」の問題が山積しています。ですから、これからの時代は本音を率直に言い、現在の問題に勇気をもって取り組んでいかなければ、多くのややこしい問題は、ますますこじれてきて、人間にとって、より良い未来は来ないと思います。広い視野を持ち、根本的なことに目を向けて「人間のあるべき姿」を考えられる方が、一人でも増えることを 願わずにはいられません。
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